「細川立孝」の版間の差分

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[[足利氏]]の支流・[[細川氏]]の[[細川忠興]]の四男。母は幾知([[清田鎮乗]]の娘)。[[正室]]は鶴([[中納言]] [[五条為適]]の娘)。[[側室]]は布施野氏の娘と斎藤氏の娘。子は[[宇土藩]]主[[細川行孝]](母は布施野氏の娘)。官位は[[従五位下]]、[[中務大輔]] 。
 
僧籍に入り立充と名乗った。寛永9年12月、晩年の父忠興に溺愛され、兄[[細川忠利]]が熊本藩に移封されると、隠居の父忠興とともに八代城に入城した。忠興は北の丸に立孝は本丸に住した。寛永11年12月、鶴と八代にて婚儀を執り行う。寛永15年(1638年)1月4日に[[島原の乱]]に出陣する。寛永16年(1639年)将軍に拝謁後、還俗した。忠興は、自分の隠居料八代7万石を立孝に与えようとしていたが、正保2年、江戸表で没し、同年後を追うように忠興も没した為、翌年遺児宮松(行孝)を宇土に移し、立孝の内分領の宇土3万石が与えられ、宇土藩が立藩した。
 
 
{{DEFAULTSORT:ほそかわ たつたか}}
[[Category:細川氏|たつたか]]
[[Category:還俗した人物]]
[[Category:1615年生]]
[[Category:1645年没]]