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その後も、諸省を転戦して軍功を立て、[[曽国藩]]の推薦で[[1863年]]浙江[[巡撫]]となった。[[イギリス]]や[[フランス]]と協力して、[[金華市|金華]]・[[紹興市|紹興]]などを奪回し、[[ビン浙総督|閩浙総督]]に昇進した。[[1864年]]には[[杭州市|杭州]]を奪回し、その後は東南部の太平天国の残党の掃討にあたった。曽国藩や[[李鴻章]]らとともに、軍備強化のため、[[洋務運動]]を推進し、[[福州船政局]]などを創設した。
 
その後、[[1866年]]には[[陝甘総督]]に転任して、[[捻軍]]や[[ドンガン人]]([[回族]])の蜂起([[回民蜂起]])を鎮圧した。[[1875年]]、左宗棠は[[欽差大臣]]に任命され、[[ヤクブ・ベクの乱]]により清朝の支配力が弱体化した[[新疆]]の軍務を担当し、新疆を奪回した。

1872年3月、曽国藩が死去すると、「排左必先除胡」と言われる李鴻章との政争が始まった。左宗棠は[[ロシア帝国|ロシア]]に対する陸上の備えの重要性を主張する塞防派の代表格であり、海防派の代表格である李鴻章とは政治的に対立関係にあった。そこで、左宗棠の資金面を支えていた[[新安商人]]の[[胡雪巌]]を先に失脚させようという政争が始まった。

清朝の重臣として[[軍機大臣]]、[[両江総督]]兼[[南洋通商大臣|南洋大臣]]、[[東閣大学士]]の要職を歴任。[[1884年]]8月 - [[1885年]]4月、[[清仏戦争]]では欽差大臣としてフランス軍との和議を成立させている。1885年、[[福州市|福州]]で病死。

著書に『左文襄公全集』がある。
 
== 関連人物 ==