「エカテリニ (ギリシャ王女)」の版間の差分

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エカテリニはイングランドの寄宿学校で教育された。エカテリニの母ゾフィー王妃は1932年に亡くなったが、エカテリニはその後も次姉イリニと一緒にヴィラ・スパルタに住み続けた。1934年に従姉の[[マリナ (ケント公爵夫人)|マリナ]]がイギリス王の弟[[ジョージ (ケント公)|ケント公]]と結婚したとき、エカテリニはヨーク公女エリザベス(後の女王[[エリザベス2世]])と一緒にブライズメイドを務めた。
 
1935年に長兄ゲオルギオス2世が復位すると、エカテリニも姉イリニとともにギリシャに帰国した。1939年に[[第2次世界大戦]]が起きると、エカテリニはギリシャ[[赤十字]]に参加した。1941年、彼女は三兄パウロスと一緒に[[南アフリカ]]に赴き、[[ケープタウン]]で従軍看護婦として働いた。エカテリニは1946年にエジプトからイングランドに向かう蒸気船「アスカニア」号に乗って再びイギリスに移住したが、この船上でイギリス砲兵部隊の将校リチャード・ブランドラム少佐(1911年 - 1994年)と出会った。二人はイングランドに到着して三週間後に婚約し、1947年4月21日にアテネ王宮で結婚式を挙げた。長兄ゲオルギオス1世はエテリニの結婚式直前に亡くなったため、その後を継いでいた三兄[[パウロス1世 (ギリシャ王)|パウロス1世]]が結婚の仲人を務めた。
 
エカテリニは夫の赴任地であった[[バグダッド]]に住んだが、夫妻は後にイングランドに帰国した。エカテリニはイギリスでは'''レディ・キャサリン・ブランドラム'''(Lady Katherine Brandram)と名乗ることを許され、イギリス王[[ジョージ6世 (イギリス王)|ジョージ6世]]は彼女を[[宮中席次]]において公爵令嬢として遇した。ただしこうした称号・待遇はイギリス国内のみで通用するもので、彼女はイギリス国外では「ギリシャ王女およびデンマーク王女」として扱われた。夫妻は一人息子ポール(1948年 - )をもうけた。