「ルワンダ虐殺」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
Johncapistrano (会話 | 投稿記録)
m 「ハム人種」と「ハム仮説」は違う、「ルワンダにおける二つの紛争」などを見る限り武内進一の文章としては考えられないので
Ken.y (会話 | 投稿記録)
『現代アフリカの紛争と国家』p.85および「ルワンダにおける二つの紛争」p104の注6、en:Hamiticを再確認したが、ハム仮説におけるカナンの末裔はコーカソイドのハム系諸民族では?
15行目:
アフリカへのヨーロッパ人の到来と当時の人類学により、ルワンダやブルンジなどのアフリカ大湖沼周辺地域の国々はフツ、ツチ、トゥワの「3民族」から主に構成されると考えるのが主流であった。この3民族のうち、この地域に最も古くから住んでいたのは、およそ紀元前3000年から2000年頃に狩猟民族の[[トゥワ]]だった<ref>Jackson Nyamuya Maogoto, "The International Criminal Tribunal for Rwanda: A Distorting Mirror; Casting doubt on its actor-oriented approach in addressing the Rwandan genocide", '' African Journal on Conflict Resolution'', 2003. [http://se1.isn.ch/serviceengine/Files/ISN/98087/ichaptersection_singledocument/CEC67BB4-3CAD-419F-85D3-D513318F8E6E/en/Chapter4.pdf]</ref>。その後、農耕民のフツが10世紀以前にルワンダ周辺地域に住み着き、さらに10世紀から13世紀の間に北方から牧畜民族のツチがこの地域に来て両民族を支配し、[[ルワンダ王国]]下で国を治めていたと考えられていた<ref>武内進一『現代アフリカの紛争と国家 ポストコロニアル家産制国家とルワンダ・ジェノサイド』pp.84-87、明石書店、2009年2月。</ref>。
 
この学説の背景の1つに、19世紀後半のヨーロッパにおける主流の人種思想と[[ハム仮説]]([[:en:Hamitic#Hamitic hypothesis|Hamitic hypothesis]])があった。当時の人類学では旧約聖書の創世記第9章のノアの裸体をハムが覗き見た罪により、ハムの息子のカナンが「カナンはのろわれよ。彼はしもべのしもべとなって、その兄弟たちに仕える。」<ref>[http://bible.e-lesson1.com/2genesis9.htm 創世記 第9章]</ref>とモーゼの呪いを受けたとする記述から、全ての民族をセム系ハム系ヤペテ系など旧約の人物に因んだ人種に分けるものがあり、そのネグロイドうちのハム系諸民族をカナンの末裔とし、優越種族であるこのハム系民族が、未開の地であるアフリカおよびアフリカ土着の人種であるネグロイドに文明をもたらしたとするのがハム仮説であった<ref>『現代アフリカの紛争と国家』p.85。</ref>。ルワンダおいて、「[[ネグロイド]]」の[[バントゥー系民族]]に特徴的な「中程度の背丈とずんぐりした体系を持つ」農耕民族のフツを、「[[コーカソイド]]」のハム系諸民族に特徴的な「痩せ型で鼻の高く長身な」牧畜民族のツチが支配する状況は、このハム仮説に適合するものとされた<ref>『現代アフリカの紛争と国家』p.87。</ref>。19世紀後半にこの地を訪れた[[ジョン・ハニング・スピーク]]は、1864年に刊行した『ナイル川源流探検記』においてハム仮説を提唱した。しかし近年では、この民族はもともと同一のものが、次第に牧畜民と農耕民へ分化したのではないかと考えられている。その理由として、フツとツチは宗教、言語、文化に差異がないこと、互いの民族間で婚姻がなされていること、19世紀まで両民族間の区分は甚だ曖昧なものだったこと、ツチがフツの後に移住してきたという言語学的・考古学的証拠がないことがあげられる<ref>饗場和彦「ルワンダにおける1994年のジェノサイド」『徳島大学社会科学研究』第19号 2006年1月 pp.38-39</ref><ref>武内進一 『現代アフリカの紛争 歴史と主体 』、日本貿易振興機構・アジア経済研究所、2000年1月、pp.247-292。</ref>。
 
[[ファイル:League of Nations mandate Middle East and Africa.png|thumb|200px|left|10が[[ルアンダ・ウルンディ]]の場所。]]