「東常縁」の版間の差分

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{{武士/開始|東常縁}}
{{武士/肖像|[[Image:Tō Tsuneyori.jpg|200px|東常縁像]]}}
{{武士/時代|[[室町時代]]中期から[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]初期}}
{{武士/生誕|[[応永]]8年([[1401年]]?)}}
{{武士/妻|[[正室]]:不詳}}
{{武士/子|'''[[東縁数|縁数]]'''、[[東常和|常和]]、[[東胤氏|胤氏]]、[[常庵龍崇]]}}
{{武士/終了}}'''東 常縁'''(とう つねより)は、[[室町時代]]の武将であり、歌人でもある。父は[[東益之]]。法名は素伝。官職が下野守だったため東野州と一般には称される。生年について、応永12年([[1405年]](応永12年同14年([[1407年]](応永14年言うある
 
[[東氏]]は[[千葉氏]]一族の武士の家柄であったが、先祖の[[東胤行]]は[[藤原為家]]の娘婿にあたり、東氏は女系ながら[[藤原定家]]の血をひく。
 
== 生涯 ==
[[室町幕府]][[奉公衆]]として[[京都]]にあり、[[冷泉派]]の[[正徹|清巌正徹]]にも[[和歌]]を学ぶが、[[1450年宝徳]]2年([[宝徳1450年]]2年)正式に[[二条派]]の[[尭孝]](ぎょうこう)の門弟となる。[[1455年]](康正]]元年([[1455年]])[[下総国]]で起きた本家にあたる[[千葉氏]]の内紛を収めるため、[[征夷大将軍|将軍]][[足利義政]]の命により、嫡流の[[千葉胤賢]]の遺児[[千葉実胤|実胤]]と[[千葉自胤|自胤]]兄弟を支援し[[関東]]を転戦した。だが、[[古河公方]][[足利成氏]]が常縁に敵対的な介入を図ったために、成果は芳しくなかった。
 
更に、関東滞在中に[[応仁の乱]]が発生し、所領である[[美濃国]]郡上を[[守護]][[土岐成頼]]を擁する[[斎藤妙椿]]に奪われたが、これを嘆いた常縁の歌により所領の返還がかなった。[[1471年]]([[文明 (日本)|文明]]3年([[1471年]])、[[宗祇]]に[[古今伝授]]を行っている。後年「拾遺愚草」の注釈を宗祇に送っている。
 
常縁は'''古今伝授の祖'''として注目されるが、当時の歌壇の指導者であったわけではなく、むしろ二条派歌学の正説を伝えた歌学者としての功績が大きい。家集には「常縁集」、歌学書には「東野州聞書」がある。
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