「昭和池」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
m編集の要約なし
3行目:
 
==概要==
[[昭和]]初期に[[三草山]]山麓の[[三草川]]上流およびカラクニ谷を堰き止めて作られたため池。下流町村約1000町歩への補給を意図され築かれた。貯水量は1,502㎥でため池としてはで、[[船木池]]([[小野市]])の1,615㎥に次ぎ、県内2位。[[堤体]]の高さは、31.2mで[[上田池]]([[南あわじ市]])41.5m、[[成相池]]([[南あわじ市]])33.0mに次ぎ3位。
 
[[1924年]](大正13年)に大[[旱魃]]を経験したことから、上福田、加茂、社、福田の各町村の水不足を解消すべく、[[1925年]](大正14年)8月、社町社(現在の[[加東市]]社)の区長会において、[[貯水池]]の建設や朝鮮水害義援金募集などの議題が協議され、県営の昭和池ダムの建設計画が浮上し、昭和の始めには完成された。このため昭和池と命名された。築造に際しては多くの[[犠牲者]]を出している。[[工事]]には多くの[[韓国人]][[労働者]]が徴用された。