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'''宇津山城'''(うつやまじょう)は、[[遠江国]]にる[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]の城跡。
 
[[永正]]3年([[1506年]])頃、遠州進出を図った[[今川氏親]]が[[浜名湖]]西岸に築いた。城主には[[長池親能]]、次に[[小原親高]]が入り[[享禄]]年間以降は[[朝比奈泰長]]が入った。
[[今川氏親]]が遠州進出を図って、[[永正]]3年([[1506年]])頃に築いた。城主には[[長池親能]]、次に[[小原親高]]が入り[[享禄]]年間以降は[[朝比奈泰長]]が入った。[[弘治]]元年([[1555年]])、氏泰が病没し、嫡男[[朝比奈泰充|泰充]]が城主となる。[[永禄]]3年([[1560年]])[[桶狭間の戦い]]で[[今川義元]]が討たれると、[[徳川家康]]が自立して三河統一を果たし、徳川方に誼を通じる土豪が多くなるなかで泰充は今川氏に忠誠を貫こうとした。永禄5年、今川氏を離反した三河国五本木城主[[西郷正勝]]を五本木城に討ち取り、訃報を聞いた嫡男[[西郷元政]]をも討ち取っている。しかし、永禄9年正月、城中で謡初め会にて弟の[[朝比奈真次|真次]]に殺され、代わって真次が城主となった。しかし、永禄10年正月、[[今川氏真]]の命を受けた[[小原鎮実]]に討ち取られる。今川方は、境目城を築き、宇津山城とともに家康の来攻に備えた。永禄11年12月徳川方の[[酒井忠次]]は13日に土豪の佐原重吉、内藤三左衛門、松野三右衛門らと境目城を落としたのち、15日遠江国に侵攻し、永禄12年([[1569年]])宇津山城を守備していた小原鎮実の家老増田団右衛門は城より討って出るが討死し、城主小原鎮実らは城に爆薬を仕掛け浜名湖から逃亡した。しかし、爆薬の量が少なく、酒井勢は爆発音に驚いたが死傷者はでなかった。その後、家康は[[松平家忠]]を在番として城郭を拡張させている。元亀3年[[松平清善]]が1,000貫を賜って城番に命じられた。廃城になった時期は不明。
 
==概要==
[[弘治 (日本)|弘治]]元年([[1555年]])に氏泰(泰長)が病没すると、その嫡男[[朝比奈泰充|泰充]]が城主となる。[[永禄]]3年([[1560年]])[[桶狭間の戦い]]で[[今川義元]]が討たれると、自立を志す[[徳川家康]]が[[三河国]]統一に向けて邁進。徳川方に誼を通じる土豪が多くなる中で、[[掛川城|掛川]]朝比奈氏の傍流であった泰充は、総領家と同様に今川氏への忠誠を貫こうとしていた。
 
永禄5年、[[今川氏]]から徳川氏へ転属・離反した[[三河国]][[八名郡]]五本松城を襲うと、城主[[西郷正勝]]を討ち取り、凶報により駆けつけた正勝の嫡男[[西郷元正]]をも討ち取っている。しかし、永禄9年正月、城中における謡初め会にて、徳川に誼を通じていた弟の[[朝比奈真次|真次]]に殺され、そのまま城主の座を奪われた。しかし、永禄10年正月、[[今川氏真]]の命を受けた[[小原鎮実]]に討ち取られた真次。今川方は、境目城を築き、宇津山城とともに家康の来攻に備えた。
 
永禄11年([[1568年]])12月、徳川方の[[酒井忠次]]は13日に土豪の佐原重吉、内藤三左衛門、松野三右衛門らと境目城を落としたのち、15日遠江国に侵攻し、永禄12年([[1569年]])宇津山城を守備していた小原鎮実の家老増田団右衛門は城より討って出るが討死し、城主小原鎮実らは城に爆薬を仕掛け浜名湖から逃亡した。しかし、爆薬の量が少なく、酒井勢は爆発音に驚いたが死傷者はでなかった。その後、家康は[[松平家忠]]を在番として城郭を拡張させている。元亀3年([[1572年]])[[松平清善]]が1,000貫を賜って城番に命じられた。廃城になった時期は不明。
 
現在の[[湖西市]]入出の[[浜名湖]]に突き出した正太寺鼻に位置する宇津山(49.5m)にあり、[[郭]]や[[土塁]]、[[武者走り]]が残る。[[正太寺]](遠州三十三観音25番札所)の敷地内にある。