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{{公会議}}
'''コンスタンツ公会議'''(- こうかいぎ)は[[1414年]]から[[1418年]]にかけて[[ドイツ]]の[[コンスタンツ]]で開催された[[カトリック教会]]の[[公会議]]。3人の[[対立教皇]]を廃し、一人の正統な[[教皇|ローマ教皇]]を立てることで[[教会大分裂]]([[シスマ]])を終結させた。また[[ジョン・ウィクリフ]]と、その影響を受けた[[ヤン・フス]]を有罪とした。コンスタンツ公会議は[[教皇権]]が失墜した中で、[[公会議主義]]者が主導した唯一の公会議となった。
 
== 経緯 ==
教会分裂に終止符を打つべく行われた[[ピサ教会会議]]([[1409年]])では、[[ヨハネス23アレクサンデル5世 (対立教皇)|ヨハネス23アレクサンデル5世]]を新教皇として選出したが、[[アヴィニョン]]教皇[[ベネディクトゥス13世_(対立教皇)|ベネディクトゥス13世]]とローマ教皇[[グレゴリウス12世 (ローマ教皇)|グレゴリウス12世]]が退位しなかったため、3人の教皇が鼎立するという異常事態を招いて失敗に終わった(アレクサンデル5世は翌年に急死、[[ヨハネス23世 (対立教皇)|ヨハネス23世]]が後を継いだ)。ここにおいて影響力を強めようとした[[神聖ローマ]]皇帝[[ジギスムント (神聖ローマ皇帝)|ジギスムント]]の提唱によってコンスタンツでの公会議の開催が宣言された。ジギスムントはヨハネス23世を説得してこの会議に参加させ、その呼びかけによって多くの参加者を得ることに成功した。
 
ヨハネス23世は自らの正統性がここで確認されることを期待していたが、会議の流れでその望みが果たされないと悟ると支持者の[[枢機卿]]たちと共に逃亡を図った。「[[教皇]]」を失った公会議はここにおいて崩壊の危機に瀕したが、公会議主義者であった[[神学者]][[ジャン・ジェルソン]]らが「教皇さえも公会議の指導に従うべきである」と唱え、会議を主導したことで持ち直した。ここにおいて採択された教令「ヘック・サンクタ」(Haec Sancta)は公会議主義の精神をよく表しているもので、公会議に次の3つの目標を打ち立てた。
 
# 教会分裂を収拾する
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# 教会内の異端を一掃する
 
その後、ヨハネス23世は捕らえられ廃位された。[[グレゴリウス12世 (ローマ教皇)|グレゴリウス12世]]はここに至って、[[1415年]]に自ら退位を宣言した。残った[[ベネディクトゥス13世_(対立教皇)|ベネディクトゥス13世]] は退位を拒んだが、[[1417年]]7月に廃位が宣言された。こうして教会大分裂収拾の準備は整った。
 
[[1417年]]10月、公会議は画期的な教令「フレクエンス」(Frequens)を採択した。これは公会議を定期的に行うことで、教皇権の暴走に対する抑止力とすること、公会議を以後5年目、さらに7年後、以降は10年ごとに定期的に開催することをうたっていた。
 
[[1417年]][[11月11日]]に公会議は[[枢機卿]]オド・コロンナを新教皇として選出、彼は当日の[[聖人]][[マルティン]]にちなんで[[マルティヌス5世_(ローマ教皇)|マルティヌス5世]]を名のった。また公会議は[[ジョン・ウィクリフ|ウィクリフ]]、[[ヤン・フス|フス]]の教説を[[異端]]思想と判断した。1414年、ウィクリフの遺体は掘り起こされて著書とともに焼かれ、[[1415年]][[7月6日]]、自説の撤回を拒んだためフスは世俗権力に引き渡されて焚刑に処せられた。
 
公会議主義はここにおいて頂点に達した感がある。教皇マルティヌス5世も自らを選出した公会議の教令を無視せず、「フレクエンス」の内容を尊重して、次の公会議を召集しようと努力していた。しかし、結果的に教皇権が再び安定したものになると公会議主義の思想は危険なものとみなされるようになっていった。また、公会議の主導による教会の改革は結局行われることがなく、[[宗教改革]]への伏線となっていった。
 
== ポーランド問題 ==
コンスタンツ公会議では別の問題も討議された。[[タンネンベルクの戦い (1410年)|ポーランド王国との戦争]]に敗北した[[ドイツ騎士団|チュートン騎士団]]は、[[ポーランド王国]]が[[異教徒]]を擁護していると主張した。ポーランドの[[ヤギェウォ大学|クラクフ大学]]学長[[パヴェウ・ヴウォトコヴィチ|パヴェル・ヴウォツコヴィツ]]([[:en:Paulus Vladimiri|Paweł Włodkowic]])は、「全ての人民は、たとえ異教徒であろうとも、自らを統治し平和のうちに暮らし、その土地を所有する権利がある。」という主張を展開した。これは[[国際法]]の提唱の最も初期のものとされ、内容は以下のとおりである:
*それぞれの[[共同体]]はどの国家に属するべきか自ら決定する権利を有する
*人々は自らの未来を決定し、国家を防衛する権利を有する
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*暴力や威圧を利用したキリスト教への改宗は無効であり、罪深くかつ恥ずべきことである
*戦争の口実にキリスト教への改宗を用いてはならない
*平和維持に関する論争は国際法廷が判断を下し、どの支配者も、たと[[皇帝]][[ローマ教皇|教皇]]であっても、この手続きを踏まずして戦争を行う事は許されない
*戦争の合法性に関する原則は、戦う相手がキリスト教徒であろうとなかろうと、全ての国家と人民に適用され強制される
*非キリスト教徒や非ローマ・カトリック教徒の国家は、それらが隣国と平和に共存している限り主権と領土防衛の権利を有する
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会議の席上において[[ファルケンベルクのヨハン]]([[:en:John of Falkenberg|Johannes Falkenberg]])はポーランドを糾弾し、「ポーランドはチュートン騎士団に対する戦争において異教徒を使うという嫌悪すべき罪を犯した。」と主張した。さらにヨハンはその論文「[[リベル・デ・ドクトリナ]](Liber de doctrina)」において、「皇帝は未信者を、たとえ彼らが平和的な存在であろうとも、異教徒であるがゆえに虐殺する権利を有する。ポーランドは未信者と同盟してキリスト教徒の騎士に反抗したのであるから、絶滅されるべきである。未信者を守護したポーランドは死に値し、未信者よりもさらに優先して絶滅されるべきである。ポーランド人から主権を剥奪し、ポーランド人を奴隷にすべきである。」と主張した。
 
教皇[[マルティヌス5世 (ローマ教皇)|マルティヌス5世]]は[[1424年]][[1月]]、「ファルケンベルクのヨハンのこのような誤った非難を原因としてポーランド王国に起こりうる災厄を未然に防ぐことを欲し…このような誤った非難を宣伝、擁護、主張するなどの行為を行うキリスト教徒は全て事実上の[[破門]]に処する。」との大勅書を発した。
 
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