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'''コンスタンツ公会議'''(- こうかいぎ)は[[1414年]]から[[1418年]]にかけて[[ドイツ]]の[[コンスタンツ]]で開催された[[カトリック教会]]の[[公会議]]。
== 経緯 ==
教会分裂に終止符を打つべく行われた[[ピサ教会会議]]([[1409年]])では、[[
ヨハネス23世は自らの正統性がここで確認される
# 教会分裂を収拾する
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# 教会内の異端を一掃する
その後、ヨハネス23世は捕らえられ廃位された。
[[1417年]]10月、公会議は画期的な教令「フレクエンス」(Frequens)を採択した。これは公会議を定期的に行うことで、教皇権の暴走に対する抑止力とすること、公会議を以後
公会議主義はここにおいて頂点に達した感がある。教皇マルティヌス5世も自らを選出した公会議の教令を無視せず、「フレクエンス」の内容を尊重して、次の公会議を召集しようと努力していた。しかし、結果的に教皇権が再び安定したものになると公会議主義の思想は危険なものとみなされるようになっていった。また、公会議の主導による教会の改革は結局行われる
== ポーランド問題 ==
コンスタンツ公会議では別の問題も討議された。[[タンネンベルクの戦い (1410年)|ポーランド王国との戦争]]に敗北した[[ドイツ騎士団|チュートン騎士団]]は、[[ポーランド王国]]が[[異教徒]]を擁護していると主張した。ポーランドの[[ヤギェウォ大学|クラクフ大学]]学長[[パヴェウ・ヴウォトコヴィチ|パヴェル・ヴウォツコヴィツ]]([[:en:Paulus Vladimiri|Paweł Włodkowic]])は、「全ての人民は、たとえ異教徒であろうとも、自らを統治し平和のうちに暮らし、その土地を所有する権利がある。」という主張を展開した。これは[[国際法]]の提唱の最も初期のものとされ、内容は以下のとおりである:
*それぞれの[[共同体]]はどの国家に属するべきか自ら決定する権利を有する
*人々は自らの未来を決定し、国家を防衛する権利を有する
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*暴力や威圧を利用したキリスト教への改宗は無効であり、罪深くかつ恥ずべきことである
*戦争の口実にキリスト教への改宗を用いてはならない
*平和維持に関する論争は国際法廷が判断を下し、どの支配者も、
*戦争の合法性に関する原則は、戦う相手がキリスト教徒であろうとなかろうと、全ての国家と人民に適用され強制される
*非キリスト教徒や非ローマ・カトリック教徒の国家は、それらが隣国と平和に共存している限り主権と領土防衛の権利を有する
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会議の席上において[[ファルケンベルクのヨハン]]([[:en:John of Falkenberg|Johannes Falkenberg]])はポーランドを糾弾し、「ポーランドはチュートン騎士団に対する戦争において異教徒を使うという嫌悪すべき罪を犯した。」と主張した。さらにヨハンはその論文「[[リベル・デ・ドクトリナ]](Liber de doctrina)」において、「皇帝は未信者を、たとえ彼らが平和的な存在であろうとも、異教徒であるがゆえに虐殺する権利を有する。ポーランドは未信者と同盟してキリスト教徒の騎士に反抗したのであるから、絶滅されるべきである。未信者を守護したポーランドは死に値し、未信者よりもさらに優先して絶滅されるべきである。ポーランド人から主権を剥奪し、ポーランド人を奴隷にすべきである。」と主張した。
教皇
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