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===ジャウメ1世:建国===
[[Image:Jaume I Palma.jpg|thumb|150px|right|マヨルカ王ジャウメ1世<br />(アラゴン王ハイメ1世)]]
マヨルカ王国は「征服王」として知られる[[ハイメ1世 (アラゴン王)|アラゴン国王ハイメ1世]]が立てた国である。彼はイスラム支配下にあった地域の占領に邁進し、[[1229年]]からバレアレス諸島マヨルカ島への侵攻を開始する。[[1232年]]には[[メノルカ島]]、[[1235年]]には[[イビサ島]]を制圧した。長男アルフォンソの死後、彼は後妻ヨラーンとの間に儲けた2番目の男子ハイメのために与える国として[[1262年]]、マヨルカ領土をハイメに相続する意志を書き留めた。[[1276年]]のハイメ1世死去に伴い、[[アラゴン王国]]の王位は嫡男ペドロ([[ペドロ3世 (アラゴン王)|ペドロ3世]](大王
[[Image:Conquest of Mallorca by James I of Aragon 01.jpg|thumb|180px|left|[[1229年]]アラゴン王ハイメ1世によるマヨルカ島征服]]
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ハイメ1世の死後、王位についたジャウメ2世は宗主国アラゴンの王である兄ペドロ3世と対立。マヨルカがアラゴンの属国であることを認めようとせず、貢物を送ることもなかった。しかし、満足に王国の体裁をなしておらず裁判所などの社会制度もないマヨルカは、結局アラゴンに屈せざるを得ず、[[1279年]]に結ばれた[[ペルピニャン]]条約で正式にアラゴン王国の管轄下に置かれ、ジャウメ2世はペドロ3世の臣下となった。マヨルカ王国はアラゴン王が政治・経済的に管轄し、裁判権を持ち、王国の存続自体をアラゴンに左右される存在となった。
劣勢を跳ね返してペドロ3世に対抗すべく、ジャウメ2世は[[教皇|ローマ教皇]][[マルティヌス4世 (ローマ教皇)|マルティヌス4世]]、フランス王[[フィリップ3世 (フランス王)|フィリップ3世]]と連合した。マルティヌス4世はペドロ3世を[[破門]]してアラゴンをフィリップ3世に与えると宣言。アラゴン[[十字軍]]として連合軍がペドロ3世に挑むもFormigues島の戦いで敗れてしまう。ペドロ3世は反撃に転じ、バレアレス諸島を侵攻したが病を得て急逝した。さらに同年マルティヌス4世
しかしペドロ3世の ===ジャウメ3世:王国の滅亡===
ジャウメ2世が[[1311年]]に死去した後は、次男[[サンチョ1世 (マヨルカ王)|サンチョ1世]]が嗣いだが早世し、[[1324年]]サンチョの甥[[ジャウメ3世 (マヨルカ王)|ジャウメ3世]]が王位を継承した。しかしわずか9歳での即位のため、摂政協議会を必要とした。当時、アラゴン王ハイメ2世がマヨルカ王位の返還を要求するなど難しい状況下での王位継承であり、摂政協議会は翌[[1325年]]、サンチョ1世時代に[[サルデーニャ]]からの侵攻を防ぐために発生した莫大な負債をすべて支払い終えれば、アラゴンはマヨルカ王位継承権に関する主張を放棄するとハイメ2世に確約させた。この協定は王位継承に関する危機を解決したものの、王国を深刻な財政危機に陥れることになった。
アラゴンの強い影響下に置かれたうえ、アラゴン王[[アルフォンソ4世 (アラゴン王)|アルフォンソ4世]](慈悲王)
財政問題は終わりを見せず、[[1341年]]ついにアラゴン王[[ペドロ4世 (アラゴン王)|ペドロ4世]]は国交を断絶、再びマヨルカへの侵攻を伺う気配となった。[[1343年]]、ペドロ4世はバレアレス諸島へ侵攻を開始、続いて翌[[1344年]]にはルシヨン、セルダーニュにも侵入した。これにより事実上マヨルカ王国は滅亡した。ジャウメ3世はもはやフランスにわずかに残る領土を守ることで精一杯であり、[[1349年]][[10月25日]]リュクマヨールの戦いに敗れ、戦死した。これに伴い、マヨルカ王国は完全にアラゴン王国に併合される。 ===その後のマヨルカ王家===
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