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==歴史==
韓国棋院は囲碁文化の暢逹と普及, 専門記事の伎芸向上を目的に 1954年 1月 8日社団法人で公式出帆した. しかし韓国棋院の歴史はゾナムチォルが 1945年 11月に設立した漢城祈願(漢城棋院)でさかのぼることができる.
[[日本]]で[[1941年]]にプロ棋士初段となった[[趙南哲]]が、[[1943年]]に韓国に帰り、[[1945年]]に囲碁団体として漢城棋院を設立。[[1947年]]に朝鮮棋院、[[1949年]]に大韓棋院と名前を変え、[[1955年]]に韓国棋院となる。
当時の韓国では、日本ルールによる「現代囲碁」と、あらかじめ白黒16個の置き石をした上で対局を始める、[[巡将碁]](スンジャン・パドゥク)と呼ばれる伝統的な囲碁が混在しており、趙南哲らは「現代囲碁」の普及を目指した。
 
ゾナムチォルは日本のその他だからMinoru門下で留学して日本祈願プロ初段になった後帰国して, 殉葬囲碁廃止, プロ記事制度と囲碁記伝創設などの計画を立てて韓国棋院の土台を磨いた. 解放直後の混乱期と朝鮮戦争を経りながら延ばされたゾナムチォルの構想は 1954年社団法人韓国棋院の創立とともに本格化された.
[[1950年]]に韓国囲碁界で初の段位決定戦を行ない、南哲が三段、他に12人を初段とした。
この直後の[[朝鮮戦争]]の勃発で活動を休止するが、3年後の休戦協定後に活動を再開する。
 
韓国棋院は 1954年 4月 10日第1回昇段大会を開催して 6月 20日第1回入団大会を開催した. また 1955年 3月には最初の国際公式試合である第1回韓中危機交流展を開いた. 以後東亜日報が最初のプロ囲碁記伝である麺第1位戦を創設しながら新聞記伝の時代が開幕された.
[[1956年]]に新聞棋戦[[国手戦]]を開始。趙南哲が第1期国手となり、以後9連覇して第一人者となる。その後、[[金寅]]、[[尹奇鉉]]、[[河燦錫]]、[[チョ薫鉉|曺薫鉉]]など、日本で囲碁を学んだ棋士がトップとなっていたが、1970年代には[[徐奉洙]]が曺に互してタイトルを取るなど、韓国で育った棋士も次第に一流の実力を持つようになる。
 
1974年 10月から 1976年 12月まで, プロ記事たちの権益を保護しなければならない韓国棋院が自らの役割ができないのに不満を解くことはプロ記事たちが韓国棄権を脱退して別途の団体である大韓祈願を設立する機械波動があった. 事態が円満に解決された後大韓祈願所属記事たちは皆韓国棋院で戻った.
[[1989年]]には[[チョ薫鉉|曺薫鉉]]が第1回[[応昌期杯世界プロ囲碁選手権戦]]で優勝し、続いて第2回は徐奉洙、第3回は[[劉昌赫]]、第4回は[[李昌鎬]]が優勝するなど、1990年代以降はあらゆる世界棋戦で好成績を挙げ、世界最強の囲碁勢力となった。1996年にはLG杯、三星火災杯の二つの世界選手権を開始。1997-98年の[[アジア通貨危機]]による不況では、多くの棋戦がスポンサーによって終了したり、賞金額を削減されるという危機にみまわれたが、その後は経済の復活に伴って新たな棋戦も開始された。
 
大韓民国囲碁が画期的に発展した一つのきっかけは 1989年にあった第1回イングチァングベ世界囲碁選手権戦で所属記事だった曹フンヒョンが優勝をしたのだった. 以後で李昌鎬, 劉昌赫, 李・セドルなどの傑出したプロ記事たちが登場しながら大韓民国の囲碁は世界最強という評価を受けている.
2000年以降は、ポスト李昌鎬として[[李世ドル|李世乭]]、[[朴永訓]]、[[崔哲瀚]]などが世界選手権を制し、国内棋戦でも李昌鎬とタイトルを分け合うようになる。女流棋士も、中国出身で客員棋士に迎えた[[ゼイ廼偉|芮廼偉]]九段の影響もあってレベルアップされ、[[朴鋕恩]]が韓国人女流初の九段となった。
 
現在総裁は空席であり, 理事長はホ同数 GSカルテックス会長だ.
 
==主な棋戦==