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'''浅羽 通明'''(あさば みちあき、[[1959年]] - )は[[神奈川県]][[横須賀市]]生まれの[[評論家]]。[[法政大学]]非常勤講師
==経歴==
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1979年、やはり早稲田に進学していた東雅夫が入会していた「幻想文学会」に、正式メンバーではなかったが、しばしば顔を出すようになる。[[倉阪鬼一郎]]ともこのころに知り合う。また[[堀切直人]]の面識を得る。そのうち、「幻想文学会」の別部門、レクチャー兼アジテーションを主な活動とするオカルト・異端思想についての会、「愛と憧憬の会」を主催するようになる。
1981年[[早稲田大学]][[法学部]]卒業。1982年[[司法試験]]に
学生時代から「乱調社(のちに『みえない大学本舗』)」をなのり、[[呉智英]]、[[荒俣宏]]、[[笠井潔]]などを招いての連続講演会「叛近代の贈り物」「大江戸ポストモダンの彼方に」等を企画するようになる。
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一方、[[1988年]]に出版した『ニセ学生マニュアル』で、学籍は無いが[[大学]]の講義を眺めてみたいという人(「ニセ学生」)向けに著名な教授・学者による講義の特色、実像などを観光ガイド風に紹介し話題となる。『ニセ学生マニュアル』は三部作となるが、初期のオカルト革命主義から、[[呉智英]]の影響を受けた「実社会へのフィードバックを考える思想」へと転向する。
当時は
いわゆる「第一次[[オタク]]世代」であり、「[[おたく]]」についての論考も多い。浅羽自身、一時はオカルト的な思想にかぶれており、おたく的感性がオカルトに転化する過程を論じた論考は、後の「[[オウム真理教]]」事件を予見していたともいえる。
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また、全盛期の「[[別冊宝島]]」にも評論を多数発表。その発展形の雑誌「[[宝島30]]」ではメイン・ライターの一人となる。
[[1990年代]]には
試験政治学の啓蒙家としても知られる。
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「読者との直接取引」という持論から、20年以上に渡り、有料の個人ニューズレター「流行神(はやりがみ)」を発行している。その考えから、ネット時代の現在でも、ホームページもブログも保有していない。<!--「流行神No.206」に「天皇制廃止論者」と思われるような記述(「天皇なしで歩き出す決意」)もあるが、「天皇なしで歩き出す決意」とは、
「戦後日本(知識)人らは、『自らの責任で』天皇制を近代化する勇気も自信もなかった」ゆえに「『天皇の人間宣言』というフィクションをでっちあげ」、「かくして、戦後の天皇制も日本も、それを成り立たせている『主語』がまるで見えないものとなった」という同「流行神No.206」の記述から、
「それを成り立たせている『主語』がまるで見えない『戦後の天皇制』」のみに反対しているとも解釈できるので、必ずしも「天皇制廃止論者」と断定はできない。-->同様の理由から、「電波メディア(テレビ、ラジオ等)」への出演依頼は全て断っている。「流行神」で
なお、近年は[[裕木奈江]]の熱狂的なファンになったようで、「流行神」にも「姫」と称した彼女についての記載がみられる。
長年に渡って、早稲田セミナー専任講師を勤めてきたため、「流行神」での活動と、書き下ろしをメインとし、「宝島30」以外の雑誌への執筆は最小限に抑えてきた。が、2007年に講師をリストラされたことから、「経済的事情と時間的余裕ゆえ、本年より浅羽通明は著述業者として量産体制に入ります。まずは、書き下ろし限定の著述姿勢を解除
==著書==
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*『知のハルマゲドン ゴー宣・サリン・パープリン』(小林よしのり)[[徳間書店]] 1995 のち幻冬舎文庫
*『「携帯電話的人間」とは何か "大デフレ時代"の向こうに待つ"ニッポン近未来図"』(別冊宝島)(編著)[[宝島社]] 2001.5
==関連項目==
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