「南部利謹」の版間の差分

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南部利雄の嫡子であり、盛岡藩嗣子となる。附役は用人の葛西正兵衛や伊東清作、下斗米小四郎が兼務する。[[安永]]3年([[1774年]])に乱行を理由に廃嫡され、代わりに分家で[[旗本]]であった[[南部利正]]が嗣子となる。廃嫡後は盛岡で生活する。
 
文武両道で覇気のある人物であったが、幕政に野望があったために廃嫡されたと『岩手県史』にあり、また[[寛政]]2年([[1790年]])に盛岡藩を旅した[[高山彦九郎]]は、領民から若殿(利謹)に政務を批判された役人達が讒言して押し込めたという話を聞いたと記している<ref>『高山彦九郎日記』第3巻P280-291参照</ref>。
 
== 人物及び廃嫡理由 ==
なお、子の利済は父である利謹の諱の一部である『謹』を自身や子息につけている。
父の利雄が別名を「惣四郎様(そうしろうさま)」と呼ばれたのとは文武両道で覇気のある人物であったが、幕政に野望があったために廃嫡されたと『岩手県史』にある。
 
文武両道で覇気のある人物であったが、幕政に野望があったために廃嫡されたと『岩手県史』にあり、また[[寛政]]2年([[1790年]])に盛岡藩を旅した[[高山彦九郎]]は、領民から若殿(利謹)に政務を批判された役人達が讒言して押し込めたという話を聞いたと記している<ref>『高山彦九郎日記』第3巻P280-291参照</ref>。なお、子の利済は父である利謹の諱の一部である『謹』を自身や子息につけている
 
== 参考文献 ==