「ツォルフェアアイン炭鉱業遺産群」の版間の差分

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[[第一次世界大戦]]前夜には、ツォルフェアアインの産出量はおよそ250万トンにのぼっていた。
 
=== その後大戦以降 ===
第一次世界大戦の後、1920年からは、周辺の炭坑と連携して維持と発展が図られた。そして、第4・第5の双採掘坑の更新のため、1927年までかけて第11坑が追加された。
 
1928年に入ると、中心となる坑を建設し、採掘量を増加させることが決定された。建築的にも技術的にも一流の施設目ざされ、設計が建築家フリッツ・シュップ(Fritz Schupp, 1896-1974)とマルティン・クレマー(Martin Kremmer, 1894-1945)に依頼され、当時影響力があった[[バウハウス]]の考えに沿ってデザインされた。1930年に建設され、1932年に稼動を開始した第12採掘坑の2本の足を有す立坑櫓は、最も近代的で「世界一美しい」と言われており、その後の櫓の模範となった。こうして発展した炭坑には、1937年に全体で6,900人が従事し、産出量が計360万トンに達した。
 
[[第二次世界大戦]]による被害は少なく、1953年には産出量が240万トンに回復している。その後も施設の改修が進められ、1961年には西側の用地で新たな[[コークス]]工場が操業を開始した。1日に1万トンの石炭をコークスにする能力がある、ヨーロッパ最新鋭の施設であったが、後にヨーロッパの鉄鋼業が衰退し、コークスの需要が減少したため、1993年7月末で停止されている。
 
1968年からは経営がルール石炭会社に移され、操業が継続された。しかし、1983年に操業を停止する方針が決定され、1986年12月23日を最後に、操業が止められた。その後も操業が継続されたコークス工場も、1993年に停止されている。
 
=== 産業遺産への転換 ===
1986年の操業停止の後、[[ノルトライン=ヴェストファーレン州]]が跡地を購入し、全体を[[文化産業遺産]]として保護の対象とし、用地の整理を開始した。当初予定した整備は1999年に終了し、2001年からは財団を設立して維持にあたっている。そして、2001年12月14日に、ユネスコの世界遺産に登録された。
[[ファイル:Zollverein School of Management and Design 3116754.jpg|thumb|right|ツォルフェアアイン・スクール(設計:SANAA)]]
その後は、世界遺産としての整備が進められ、[[ルール地方]]の産業遺ルートの重点地区とされており、[[ヨーロッパ産業遺産の道]]のアンカーポイントにもなっている。整備の一環くにして、旧ボイラー工場[[ノーマン・フォスター]]の設計によって改修され、1997年から州のデザインセンターとして使用されている。また、2006年には、隣接地に、[[妹島和世]]と[[西沢立衛]]によるユニットである[[SANAA]]が設計したデザイン学校のツォルフェアアイン・スクールが完成し、その形から、地元でツォルフェアアイン・クブス(キューブのこと)と呼ばれている。残念ながらデザイン学校の生徒が予定通り集まらなかったため、建物の大半はまだ利用されていないが、教育施設としての活用が検討されている。
 
2010年にエッセンが[[欧州文化首都]]に選ばれたのは、これらの成果が貢献している。また、同年には、ツォルフェアアイン・スクールを設計したSANAAが[[プリツカー賞]]を受賞している。
 
== 世界遺産登録基準 ==