「ベトレン・ガーボル」の版間の差分

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1613年、ベトレンはバートリ・ガーボル公と戦うべく大軍を率いてトランシルヴァニアに戻ってきたが、バートリはその年のうちに自分の2人の部下の手で殺された。こうして、ベトレンはオスマン帝国の力でトランシルヴァニア公の座にのぼった。[[ウィーン]]宮廷とつながりの強い人物がバートリの後を継ぐことを望んでいたハプスブルク家の神聖ローマ皇帝は、トルコ人の[[イスタンブル]]宮廷の同盟者であるベトレンの即位に反対した。1613年10月13日、コロジュヴァール(現在のルーマニア領[[クルージュ=ナポカ]])で開かれたトランシルヴァニア議会は、トルコのスルタンが選んだ新しい公を承認した。1615年には、ベトレンは神聖ローマ皇帝[[マティアス (神聖ローマ皇帝)|マティアス]]によって正式なトランシルヴァニア公と認められている。この時、ベトレンはマティアス皇帝と秘密協定を結び、オスマン帝国に対するハプスブルク帝国の戦争を支援すると約束している。
 
前任者たちのように残虐行為や乱行を働かなかったおかげで、ベトレンは家父長的であると同時に非常に啓蒙的な[[絶対王政|絶対主義]]支配を確立することが出来た。彼は鉱山を開発し、産業を育成し、トランシルヴァニアで行われていた対外貿易の多くを政府の統制下においた。ベトレンの役人たちは沢山の物品を固定価格で買い上げてそれを外国で高く売ったので、ベトレンの時代に公国の歳入は2倍近くに跳ね上がった。ベトレンは首都ジュラフェへールヴァール(現在の[[アルバ・ユリア]])に巨大な宮殿を新築し、豪華な宮廷生活を送り、自ら讃美歌を作曲し、芸術や学問(特に自らが信奉する[[カルヴァン主義]]に関するもの)を庇護した。彼はアカデミーを創設して王領ハンガリーから大勢のプロテスタント牧師や教師を呼び寄せ、そのアカデミーから多くの生徒を[[イングランド]]や[[ネーデルラント]]、ドイツのプロテスタント領邦にあるプロテスタント大学に送り込んだ。またプロテスタント牧師全員に世襲貴族の地位を与え、領主たちが農奴の子供を学校に行かせないようにすることを禁止した。
[[ファイル:Bethlen-tudos.jpg|thumb|350px|ベトレンと学者たち]]
ベトレンは豊かな財源を背景に有能な傭兵軍を自分に従えて、この傭兵軍を使って自らの野心的な対外政策を推進していった。彼はオスマン帝国とは友好的な関係を保ちつつ、北と西に軍隊を進めた。ベトレンが中央ヨーロッパで[[30年戦争]]が展開されている最中の1619年から1626年にかけて、トランシルヴァニアと隣り合う王領ハンガリーへの侵入を繰り返したのには、いくつかの理由があった。ベトレンは個人的な野心に突き動かされていた面もあったが、王領ハンガリーを支配するハプスブルク帝国の絶対主義に反対してもいた。ハプスブルクは王領ハンガリーに[[対抗宗教改革]]を導入することに成功しつつあり、同地域にすむプロテスタントたちの財産を没収するようになっていた。ベトレンはそれまで、プロテスタント信仰の自由を守ることに非常に敏感であった。また、ハプスブルク政府は、かつて[[ボチュカイ・イシュトヴァーン]]が起こした反乱を終わらせるために結んだ[[ウィーンの和約 (1606年)|ウィーンの和約]]での取り決めを無視するようになっていた。また、ハプスブルクは1615年にベトレンと交わした秘密協定をも無視してトルコとの和平を延長させ、さらにベトレンと敵対する[[上部ハンガリー]](現在の[[スロヴァキア]]とその付属地域)の太守ドルジェト・ジェルジと同盟を結ぶに至っていた。こうしたことが、ベトレンの出兵につながったといえる。