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'''ルッジェーロ・レオンカヴァッロ''' ('''Ruggiero Leoncavallo''', [[1857年]][[3月8日]][[ナポリ]] - [[1919年]][[8月9日]][[モンテカティーニ]]) [[イタリア]]の[[オペラ]][[作曲家]]、[[リブレット (音楽)|台本]]作家。
 
[[ナポリ]]音楽院で学ぶ。数年間の教育活動の後、自作のオペラ上演の機会を得ようと努力したが、果たせなかった。オペラ『[[道化師 (オペラ)|道化師]]』が1892年に[[ミラノ]]で上演されるとたちまち成功をおさめた。これは今日標準的なオペラの演目に残っている唯一のレオンカヴァッロ作品であり、それ以外の歴史的歌劇などは上演される機会はない。翌年『メディチ家の人々 (』(''I Medici)』'')を、1896年には『チャタートン』(''Chatterton'')を発表するが、どちらも興行的には失敗に終わった。
 
レオンカヴァッロの名声が確立されたのは『ラ・ボエーム (』(''La Bohème)』'')が [[1897年]]に[[ヴェネツィア]]で初演されたときからである。その後のオペラは、『ザザ』(''Zazà'', (Zazà)』([[1900年]]) や『ベルリンのローラント (』(''Der Roland)』([['', 1904年]]) がある。
 
文才に恵まれ、また同時代のフランス文学に通暁していたレオンカヴァッロは、本作家としてもそこそこの成功を収めた。彼が作曲した初期のオペラにおいてはレオンカヴァッロは初期のオペラでは自ら本を書いており、また他の作曲家のオペラ作品にの台本脚本を書いている。[[ジャコモ・プッチーニ|プッチーニ]]の出世作『[[マノン・レスコー (オペラ)|マノン・レスコー]]』の脚本にも協力した。
 
==オペラ==
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*いらっしゃいますか (Are you There?) [[1913年]]、ロンドン
*志願者 (La candidata) [[1915年]]、ローマ
*(Prestami tua moglie) [[1916年]]、[[モンテカティーニ]]
*ゴッフレード・マメリ (Goffredo Mameli) ([[1916年]]、[[ジェノヴァ]])
*(A chi la giarrettiera?) [[1919年]]、ローマ
*はじめての口づけ (Il primo bacio) [[1923年]]、[[モンテカティーニ]]
*(La maschera nuda) [[1925年]]、[[ナポリ]]
 
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[[Category:ロマン派の作曲家]]
[[Category:イタリアの作曲家]]
[[Category:オペラ作曲家]]
[[Category:オペラ台本作家]]
[[Category:イタリアの劇作家]]
[[Category:ナポリ出身の人物]]
[[Category:1858年生]]
[[Category:1919年没]]
 
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