削除された内容 追加された内容
m編集の要約なし
編集の要約なし
2行目:
 
== 生涯 ==
夏侯楙自身は軍事能力に欠けた人物であったが、父が[[曹操]]時代からの功臣であったため、曹操の娘であった[[清河長公主]]を娶ることを許され、重用された。初めは[[侍中]][[尚書]]に任じられた。
 
また[[曹丕]]と仲が良かったため、彼が皇位に即位すると、安西将軍・鎮東将軍・持節に任じられ、[[夏侯淵]]の後を受けて[[都督]][[関中]]となった。しかし、[[長安]]の守備を任されたものの、彼について言上する者があり、[[洛陽]]に呼び戻されて尚書となった。
 
夏侯楙は関中にいた時に曹操の娘以外にも多くの妾を囲っており、そのため清河公主とは仲が悪かったと言われている。後に、これが原因で妻と弟の夏侯子臧夏侯子江によって[[曹叡]]に讒言され、逮捕されてしまった。曹叡は彼を[[処刑]]しようとしたが、長水校尉の[[段黙]]が「これは清河公主と夏侯楙の仲が悪かったことから生まれた誣告でしょう。また伏波将軍(夏侯楙夏侯惇)は先帝と天下を平定するのに功績があった方ですから、特に恩を与えるべきです」と弁護を行ったため、処刑は免れた。没年は不詳。
 
== 演義 ==
小説『[[三国志演義]]』では[[夏侯淵]]の子で[[夏侯惇]]の養子となっており、何の能力も無い暗愚の武将として描かれている。正史と同様に金儲けが趣味であったとされ、その無能で気位の高い所を敵に様々に利用される役回りが多い。
[[趙雲]]と[[魏延]]から「臆病で策無しの男」と酷評された点もあってか、[[227年]]に[[諸葛亮]]が北伐を開始した時、自ら進んで総大将となるが、これと戦っていいようにあしらわれ、敵将の[[王平]]に捕らえられる。捕虜になっている最中も諸葛亮の策にかかり[[姜維]]を[[蜀]]に寝返らせるきっかけを作っている。最後には[[馬遵]]と共に[[羌]]族の土地へ逃げて、それ以降は魏に帰らなかったとされている。
 
また[[司馬懿]]が[[曹叡]]に、[[夏侯淵]]の息子達([[夏侯覇|覇]]・[[夏侯威|威]]・[[夏侯和|和]]・[[夏侯恵|恵]])を従軍させたいと言った時に、曹叡が「その者達は[[胡]](えびす、この際は羌を差す)に逃亡してしまい、戻らぬ夏侯楙将軍と比べてどうか?」という下りがあったとされるが、実際のところは(『正史』の場合)全く不詳である。
 
{{DEFAULTSORT:かこう ほう}}