「フィリベルト2世・ディ・サヴォイア」の版間の差分

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幼少時は、母方の伯父[[ブルボン公]][[ピエール2世 (ブルボン公)|ピエール2世]]の妻で、父方の従姉に当たるフランス王[[ルイ11世 (フランス王)|ルイ11世]]の娘[[アンヌ・ド・ボージュー]]の下、アンヌの弟[[シャルル8世 (フランス王)|シャルル8世]]らとともに教育を受ける。
 
父が公位を継いだ14801496年、従兄[[カルロ1世・ディ・サヴォイア|カルロ1世]]の娘で早世した先代の公[[カルロ・ジョヴァンニ・アメデーオ・ディ・サヴォイア|カルロ2世]]の姉であるヨランダと結婚したが翌1497年に父の死により公位を継いだ。ヨランダとは1499年に早世死別た。1501年12月2日、[[神聖ローマ皇帝]][[マクシミリアン1世 (神聖ローマ皇帝)|マクシミリアン1世]]の長女で一時シャルル8世の妃となっていた[[マルグリット・ドートリッシュ|マルゲリータ(マルグリット)]]と1501年12月2日に再婚した。
 
フィリベルト2世自身は政治にあまり関心がなかったが、妻マルゲリータが政治に介入し、暴政を行っていたフィリベルトの庶出の兄ルネ・バタール(フランス語名:イタリア語名レナート・イル・バスタルド - 「バタール」「バスタルド」は庶子の意味)を法的根拠に基づいて即刻解任し、国外追放した。そして小規模ながらも国の経済を回復させ、サヴォイア公国を苦境から救った。夫婦仲は極めて良かったが、結婚3年目の1504年、フィリベルトは狩猟大会の折りに飲んだ生水にあたって死亡した。2人の妃のどちらとの間にも子供がなく、公位は異母弟[[カルロ3世・ディ・サヴォイア|カルロ3世]]が継いだ。
 
フィリベルト2世はマルゲリータが建設させたブール・カン・ブレスの霊廟に埋葬された。3人目の夫であったフィリベルト2世を喪った後、マルゲリータは死ぬまで独身を貫いた。