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{{武士/開始|立花鑑寿}}
'''立花 鑑寿'''(たちばな あきひさ、[[1769年]][[5月1日]]([[明和]]6年[[3月25日 (旧暦)|3月25日]])- [[1820年]][[6月9日]]([[文政]]3年[[4月29日 (旧暦)|4月29日]]))は、[[江戸時代]]後期の[[大名]]。[[筑後国]][[柳河藩]]の第8代藩主。
{{武士/時代|江戸時代}}
 
{{武士/生誕|[[1769年]][[5月1日]]([[明和]]6年[[3月25日 (旧暦)|3月25日]])}}
第7代藩主・[[立花鑑通]]の五男。母は側室後藤氏または尚賢院(伊弥子・商家中村氏の娘)。正室は[[立花到真]](第5代藩主・[[立花貞俶]]の六男)の娘、天寿院(従姉妹にあたる)。子女は2男3女で[[立花寿俶]](次男)、娘([[立花鑑賢]]正室)、娘([[京極高朗]]正室のち[[大久保忠保]]継室のち[[安藤信義]]継室)。[[幼名]]は常之進。[[通称]]は図書。[[官位]]は伯耆守、従四位下、左近将監。
{{武士/死没|[[1820年]][[6月9日]]([[文政]]3年[[4月29日 (旧暦)|4月29日]])}}
{{武士/別名|[[幼名]];常之進 /[[通称]];図書 }}
{{武士/官位|伯耆守、従四位下、左近将監}}
{{武士/戒名|陽徳院元剛紹和大居士}}
{{武士/終了}}
'''立花 鑑寿'''(たちばな あきひさ、[[1769年]][[5月1日]]([[明和]]6年[[3月25日 (旧暦)|3月25日]]- [[1820年]][[6月9日]]([[文政]]3年[[4月29日 (旧暦)|4月29日]]))[[江戸時代]]後期の[[大名]]。[[筑後国]][[柳河藩]]の第8代藩主。
 
第7代藩主・[[立花鑑通]]の五男。母は側室後藤氏または尚賢院(伊弥子・商家中村氏の娘)。正室は[[立花到真]](第5代藩主・[[立花貞俶]]の六男)の娘、天寿院(従姉妹にあたる)。子女は2男3女で[[立花寿俶]](次男)、娘([[立花鑑賢]]正室)、娘([[京極高朗]]正室のち[[大久保忠保]]継室のち[[安藤信義]]継室)。[[幼名]]は常之進。[[通称]]は図書。[[官位]]は伯耆守、従四位下、左近将監。
== 経歴 ==
明和6年(1769年)3月25日生まれ。はじめ叔父で家臣となった[[立花通堅]](5代藩主・貞俶の十男)の養子となっていたが、[[寛政]]5年([[1793年]])8月に兄で嫡子だった[[立花鑑一]]が父に先立って[[江戸]]で死去したため、嗣子に選ばれた。そして寛政9年(1797年)閏7月22日、父の隠居により藩主となる。藩主となると家老小野勘解由を信任し、小野が実権を握る。
 
これより先、家老で姉婿でもある[[立花寿賰]](内膳)と[[立花通栄|戸次通栄(織衛)]](後に立花氏を下賜)らが豪傑党を組織して藩政改革を行ったが、その厳罰主義と党派的画策に対して藩内で不満が表面化。これ受けて小野は家老の立花内膳と戸次通栄(織衛)を解職し、さらに寺社奉行2名に蟄居、[[物頭]]戸次半ら11名に逼塞を命じている([[豪傑崩れ]])。しかしあまりにやりすぎたため、家中で反対意見も強く、同年末には早々と立花寿賰ら多くが復職した。
 
寛政11年([[1799年]])9月、亡兄・鑑一の遺児である[[立花鑑賢]]を養嗣子として迎えた。その後は藩札を発行するなどしている。また、[[文化 (元号)|文化]]元年([[1804年]])には戸次通栄に立花姓を許可する。
 
文政3年(1820年)4月29日、江戸にて死去。[[享年]]52。法号は陽徳院元剛紹和大居士。後を養嗣子の鑑賢が継いだ。
 
== 参考文献 ==