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{{武士/開始|駒井政武高白斎}}
{{武士/肖像|}}
{{武士/時代|[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]}}
{{武士/生誕|不詳}}
{{武士/死没|[[永禄]]9年頃?以前}}
{{武士/改名|政武、昌頼→高白斎}}
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{{武士/終了}}
 
'''駒井 政武高白斎'''(こまい こうはくたけ)は、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]の[[武将]]。[[武田氏|甲斐武田氏]]家臣。譜代家老衆。「高白斎記」は出家名、信虎・晴信(信玄)期の武田家用務日誌を基に成立したと考えられている『[[高白斎記]](甲陽日記)』原本の作者であると考えられている人物。出家前の[[諱]]は政武・昌頼など諸説あり、人物比定についても異説がある
 
== 生涯 ==
[[駒井氏]]は[[甲斐源氏]]武田氏の分流で、[[巨摩郡]]駒井郷([[山梨県]][[韮崎市]])を本拠とする一族。「高白斎政武」は[[武田信虎]]の頃より武田家に仕え、積翠寺郷を領していた。特にその子[[武田信玄|武田晴信]](信玄)の代に取次役を務め、外交面でも活躍。武将としても[[信濃国]][[福与城]]攻めで活躍している。
[[駒井氏]]は[[甲斐源氏]]武田氏の分流で、[[巨摩郡]]駒井郷([[山梨県]][[韮崎市]])を本拠とする一族。
 
『高白斎記』では天文11年(1542年)から「高白斎」の名が見られ、それ以前に見られる駒井姓の人物では「昌頼」の活動が見られ、天文10年の信虎の駿河追放<ref>信虎追放に関しては『[[王代記]]』『[[勝山記]]』『[[塩山向嶽庵小年代記]]』いずれも『[[山梨県史]]』資料編6中世3上(圏内記録)所載</ref>を契機に駒井昌頼が出家し「高白斎」を名乗り、信虎の駿河行きを事前に知らされていないことから、高白斎は信虎から晴信近臣と認識されていた可能性が考えられている<ref>平山 2008</ref>。
また信虎から晴信期の史料となる『[[高白斎記]]』を記した。
 
晴信期には内外両面における多様な活動が見られ、晴信期に本格化する[[信濃侵攻]]においては、諏訪攻めにおける天文11年([[1542年]])9月25日に造反した[[高遠頼継]]攻略の先陣を務め、翌26日には[[藤沢頼親]]が籠城する[[信濃国]][[伊那郡]][[福与城]]を陥落させた(『高白斎記』)。また、降伏した信濃国衆との[[取次]]や調略にも携わり、天文18年には小県郡[[村上義清]]との和睦交渉を行っているが、これは実現していない。
== 生涯 ==
[[天文 (元号)|天文]]10年([[1541年]])8月16日、[[今川氏]]は外交の方針転換により、[[北条氏]]と富士南麓の領土紛争に発展したため、両家は武田氏へ援助を求める(『[[妙法寺記]]』)。同年10月22日、今川氏と北条氏の和議のため休戦となり、10月24日に今川氏と北条氏の和議が成立した(『高白斎日記』)。
 
武田氏は信虎追放以前から[[駿河国]][[今川氏]]と甲駿同盟を結んでいたが、甲駿同盟は今川氏と[[相模国]]の[[後北条氏]]との駿相同盟の解消を引き起こし、駿相国境の駿河・富士両郡を巡る今川と北条の抗争が発生していた([[河東の乱]])。天文14年に今川・北条双方との同盟関係にある武田氏は両者の調停に乗り出しており、この際に高白斎は[[板垣信方]]、[[向山又七郎]]らとともに調停に周旋している(『高白斎記』)。また、[[三条西実澄]]、[[四辻実遠]]、[[冷泉為和]]ら公卿の接待も行い、対朝廷外交にも携わっている。
天文11年([[1542年]])9月25日、造反した[[高遠頼継]]攻略の先陣を務め破った。
 
天文19年(1550年)には晴信名代として義元夫人(晴信姉)の見舞・葬儀に赴いており、天文21年([[1552年]])11月、信玄の嫡子[[武田義信|義信]]と[[今川義元]]の娘との縁談に奔走し約定を取り付けおり、三国同盟の成立にも携わっている(『高白斎記』)。
              翌26日、[[藤沢頼親]]が籠城する[[信濃国]][[伊那郡]][[福与城]]を陥落させた(『妙法寺記』)。
 
永禄6年(1563年)5月晦日には[[高野山]]において供養が行われていることからそれ以前に死去していると考えられており、以降は嫡男の昌直(右京進)の活動が見られる。
天文16年([[1547年]])5月30日、[[甲州法度次第]]の起草を行い、信玄に提出したという(『高白斎日記』)。
 
高白斎は晴信側から家臣団への上位通達、家臣側から申請報告を行う取次立場にあり、[[偏諱]]授与や家臣団や[[国衆]]、他国への贈答品の仲介など多方面において活動が見られる。
天文21年([[1552年]])11月、信玄の嫡子[[武田義信|義信]]と[[今川義元]]の娘との縁談に奔走し約定を取り付ける(『高白斎日記』)。
 
内政面では[[諸役免許]]や[[知行宛行]]、[[所領安堵]]などの各種文書発給を行っているほか、天文16年([[1547年]])5月30日には武田領国における[[分国法]]である[[甲州法度次第]]の起草を行い、信玄に提出したという<ref>『高白斎記』、「甲州法度之次第」は『山資』6下所載)</ref>。このような内外両面における多様な活動は武田家中においても特例で、勝頼期の[[跡部勝資]]に比する政治的立場にあった人物であると指摘されている<ref>平山 2008</ref>。
== 異説 ==
* 駒井高白斎と駒井政武は別人であるという説がある([[吉川弘文社]]『戦国人名事典』などより)。
 
== 参考文献 ==
* 平山優「駒井高白斎の政治的位置」『戦国史研究』
* 平山優「駒井高白斎」『新編武田信玄のすべて』2008、新人物往来社
 
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[[Category:戦国武将]]
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