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明治時代になってからは、明治3年([[1870年]])3月から[[大学南校]](現東京大学)に出仕し、同7年([[1874年]])9月まで文部関係の[[官吏]]として文部中教授、[[文部省]]学制取調掛などを歴任。明治4年([[1871年]])12月から箕作麟祥の下で、[[学制]]の起草にあたり<ref>[http://www.mext.go.jp/b_menu/hakusho/html/hpbz198101/hpbz198101_2_019.html 文部科学省「学制の制定」『学制百年史』]</ref>、明治5年([[1872年]])5月から[[フランス]]に留学。明治6年([[1873年]])以降に文部省から刊行された『仏国学制』の翻訳者を務めた(「小学総論」「中学総論」の校閲、「大学総論」の翻訳)。
 
明治8年([[1875年]])6月から同12年([[1879年]])まで[[元老院]][[書記官]]となり、[[ギュスターヴ・エミール・ボアソナード|ボアソナード]]を援け[[法典]]調査・起草などに参与。明治13年([[1880年]])11月に[[検事]]となり、[[大阪]][[控訴院]]・[[名古屋]][[控訴裁判所]](現在の[[高等裁判所]])の[[検事長]]を勤め、同15年([[1882年]])8月に退官。また、同時期には[[嚶鳴社]]に入り、明治9~11年の間にミニエ(M.Mignet)著『仏国革命史』(『Histoire la de Révolution francaise 』)の翻訳を行なって、民権思想を広める活動も行なった
 
退官後は[[自由党 (日本 1881-1884)|自由党]]に参加。『[[大阪毎日新聞|日本立憲政党新聞]]』(現[[毎日新聞]])の主幹となり、明治18年([[1885年]])6月まで在社。
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療養に努めるが、翌年([[1894年]])7月12日に死去。享年46歳。墓は[[東京都]][[台東区]][[谷中 (台東区)|谷中]]の[[玉林寺]]にある。法名は総達院殿英倫祐之大居士。
 
[[東京大学|東京帝国大学]][[経済学部]]教授で社会政策学者の[[河津暹]](すすむ、[[1875年|1875]] - [[1943年|1943]])は祐邦の長男。なお、暹の三男で東京大学工学部教授の[[河津祐元|祐元]]の子も曾祖父と同名の「祐之」である。
[[嚶鳴社]]に入り、明治9~11年の間にミニエ(M.Mignet)著『仏国革命史』(『Histoire la de Révolution francaise 』)の翻訳を行なって、民権思想を広める活動も行なった。
 
== 参考文献 ==