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#REDIRECT [[ラサ市]]
本記事では、[[チベット]]の古都ラサに関して記述しています。古都ラサを「城関区」とし、「城関区」と近隣の諸県から構成される、中華人民共和国における地方自治体「拉薩市」については[[ラサ市]]を参照してください。
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'''ラサ'''([[チベット語]]:ལྷ་ས་ [[ワイリー方式]]:lha sa/[[蔵文ピンイン]]:Lhasa、[[中国語]][[簡体字]]:{{lang|zh|拉萨}}/[[繁体字]]:拉薩)は[[チベット]]の政治的、文化的中枢都市。またチベット、モンゴル、満州などの諸民族から構成される[[チベット仏教文化圏]]の中枢でもある。
 
[[トゥルナン寺]]を中心とした環状道路「パルコル(八角街)」の周辺に広がる旧市街と、旧市街の西方に広がり、中国の支配下で建設された新市街から成る。
 
現在、[[中華人民共和国]]の[[西蔵自治区]]の[[区都]]「[[ラサ市]]」の「城関区」の一部を構成している。
 
==名称==
チベット語「ラ(lha)」は神([[デーヴァ]]または[[仏]]、または[[王]])を、「サ(sa)」は土地を意味し、すなわち「神の地」を意味する。[[吐蕃]]時代の[[唐]]の文献には'''邏娑'''あるい'''邏些'''の名で記される。
 
一年を通じ晴天が多い事から「太陽のラサ (nyi ma lha sa)」とも呼ばれる。
 
古い日本語資料では「ラッサ」という表記も見られた。
 
=== ラサ建設と2王妃将来の本尊についての伝説 ===
7世紀初頭までは「ラサ(lha sa)」(神(lha)の地)のほか、「ラサ(ra sa)」(ヤギ(ra)の地)とも書かれた。<ref>Kolmaš, Josef. (1967) Tibet and Imperial China: A Survey of Sino-Tibetan Relations up to the end of the Manchu Dynasty in 1912, p. 7. Occassional paper 7. The Australian National University - Centre of Oriental Studies, Canberra.
</ref>。
 
後代に成立したラサの建設に関する伝説では、ラサの建設は[[吐番]]王朝の[[ソンツェンガムポ]]王による。
 
ソンツェン王は中国からギャサ(文成公主)、ネパールからぺルサ(ブリクティ)という二人の妃を迎えた。
二人の妃はそれぞれ、自国から携えてきた仏像を祀る寺院を建立させた。
ギャサがもたらした仏像を祀る寺として建立されたのが[[ラモチェ寺]]、ぺルサがもたらした仏像をまつるのが[[トゥルナン寺]]である。
 
トゥルナン寺は小さな湖上を土や丸太で埋め立てて建立された。
土や丸太の運搬には多数のヤギ(ra)が用いられ、トゥルナン寺の落慶ののち、ヤギの栄誉をたたえ、一頭のヤギ像が寺の傍らに建造され、「ヤギの地」という呼称が生じた。
 
のちにトゥルナン寺とラモチェ寺の間で本尊の入れ替えが生じたとされ、現在ではギャサがもたらしたとされる仏像([[チョウォ・リンポチェ]])がトゥルナン寺に、ぺルサがもたらしたとされる仏像がラモチェ寺にある。
 
== 歴史 ==
[[7世紀]]前半にチベットを統一した[[吐蕃王朝]]第33代[[ソンツェン・ガンポ]]により[[チベット]]の都と定められ、[[641年]]には[[文成公主]](「公主」は[[中国]]の王室の女性に対する称号)がチベットのツェンポ(王)の妃として迎えられた。
 
[[9世紀]]の[[吐蕃王朝]]の崩壊以後、チベットの政治的中心は、時期ごとの覇者たちの所在地を転々としたが、宗教的中心地としての地位は不動であった。[[1414年]]には[[ラサ三大寺]]の筆頭[[ガンデン寺]]の建立をかわぎりに[[ゲルク派]]の本拠地となり、17世紀中期には熱心な[[ダライ・ラマ]]の信者であった[[オイラト]]・[[ホショト]]部の[[グシ・ハン王朝|グシ・ハン]]がチベットの大部分を征服したことをきっかけとして、[[ダライ・ラマ]]の宗派を超えた宗教上の最高権威としての地位が確立され、諸宗派に対する[[ゲルク派]]の優位、とりわけ[[モンゴル]]におけるゲルク派の優勢が決定的となった。
 
[[1642年]]に成立したダライラマ政権は、当初歴代ダライラマの居館があった[[デプン寺]]の[[ガンデンポタン]]に置かれ、行政府の呼称はこれにちなんで「ガンテンポタン」とされた。政権の拠点として[[ポタラ宮殿]]の建設が[[1645年]より開始され、[[1660年]に完成したが、ポタラ宮殿への移転後も、行政府の「ガンデンポタン」という呼称は継承された。
 
ダライラマ政権の発足により、ラサは再びチベット全域の政治的、経済的、文化的中枢の地位を獲得しただけでなく、チベット人、[[モンゴル人]]、[[満州人]]などから構成される[[チベット仏教文化圏]]の中心ともなった。
 
== 古都ラサの構造 ==
古都ラサは、ナンコル・パルコル・リンコルの三重の環状道路から構成されている。
ナンコルとは、トゥルナン寺の本尊[[チョウォ・リンポチェ]]像の周囲をめぐる環状の回廊である。
パルコルは、トゥルナンの門前広場を起点として、境内の外側を一周する道路で、古都ラサのメインストリートである。
リンコルは、古都ラサの外縁を一周する道路である。
 
【ナンコル】
:「ナンコル」は「内側の環状巡礼路」の意。
:トゥルナン寺の構造は、本殿(チョカン)内の中心に千手観音像・弥勒像・パドマサンババ像などが置かれたキンコル・ティル(中庭)があり、それを取り巻く形で本尊チョウォ・リンポチェ像を祀る釈迦堂をはじめとする17のお堂が配置されている。トゥルナン寺の正門を入ってすぐ手前に広がるキャムラ・チェンモ(大中庭)を起点として、本殿をとりまき、マニ車が配置された巡回路がナンコルである。
【パルコル】
:「パルコル」は「まんなかの環状巡礼路」の意。
:西方にむかって開いた[[トゥルナン寺]]正門前広場を起点とし、同寺境内の外周を取り巻いている環状道路。古都ラサのメインストリートである。中国名「八角街」の「八角」とは、清末の[[1910年]]にチベットに侵攻してラサを占領した[[四川]][[総督]][[趙爾豊]]靡下の四川兵が中国語の四川方言によって「パルコル」を音写することによって成立した表記。中華民国の「国語」、中華人民共和国の「普通話」では「パージュェ」と発音されるが、中華民国の歴代政権や中華人民共和国はこの漢字表記を改めることなく、パルコルにたいする中国語の正式表記として用い続けている。
:中華人民共和国は古都ラサに対する直接統治を開始すると、中国の諸都市に施行した制度にならい、いくつかの「居民委員会」を設置したが、パルコルを管轄する居民委員会の呼称については、「八角」という表記ではなく、チベット語の発音をより忠実に音写した「八廓」という表記が採用され、「八廓居民委員会」と呼ばれている<ref>[[ツェリン・オーセル]]『殺劫』より。</ref>。「八角」と「八廓」は、ひとつの「パルコル」というチベット語が異なる時代の異なる方言で音写されることによって成立した表記である。
 
【リンコル】
 
== 脚注 ==
<references/>
 
 
== 関連項目 ==
* [[ラサ市]]
 
[[Category:チベットの歴史|らさ]]
[[Category:チベット仏教|らさ]]
 
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