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== 歴史 ==
パガン遺跡は、16平方マイルのエリア内にある。建造物の大多数は西暦[[1000年代]]から[[1200年代]]に建てられたもので、当時のパガンは、最初のビルマ統一王朝である[[パガン朝]]の都であった。西暦[[874年]]に、Pyinbya王が都をパガンに移した後に、主要な都市となった。しかし、それぞれの治世ごとに遷都することがビルマの慣習であったため、[[アノーヤター]]王の時代まで都は再び放棄されることとなった。[[1057年]], [[アノーヤター]](アニルッダ)王は[[モン族]]の都であった[[タトン]] (タトーン、Thaton) を征服し、[[パーリ語]]で書かれた[[三蔵]]の経典を取り戻した。仏教僧、職人やこうした文物は、パガン宗教的、文化的な中心地に作り変えるために役立った。 低地ビルマの僧の助けを借りて、アノーヤターは[[上座部仏教]]をパガン朝の国教化を進め、上座部仏教の盛んな[[スリランカ]]とも交流した。12世紀から13世紀になると、スリランカや[[インド]]、カンボジアの[[アンコール朝]]や[[タイ]]からの仏僧や学生を引きつけ、パガンは仏教研究の国際的な中心地となった。 [[フビライ・ハン]]の貢物を断った後の[[1287年]]に、王朝はモンゴル人に滅ぼされた。その後の歴代君主によっても放棄され、おそらくモンゴル人の掠奪を受けた街は、政治的な中心としての地位を失っていったが、その後も仏教研究の場としては繁栄を続けた。
 
==世界遺産==