「サラエヴォ包囲」の版間の差分
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サラエヴォ包囲では、12,000人が死亡し、50,000人が負傷したものと推定されている。うち85%は市民であった。殺害と強制移住によって、戦時中である1995年の人口は334,663人にまで減ったとされ、これは紛争前の市民の数の64%に過ぎない<ref>[http://www.cseecunion.org/HistoryOfCities/Sarajevo.html History of Sarajevo]</ref>
[[2003年]]1月、[[旧ユーゴスラビア国際戦犯法廷]](ICTY)の法廷では、サラエヴォ=ロマニヤ軍団の司令官[[スタニスラヴ・ガリッチ]]([[:en:Stanislav Galić|Stanislav Galić]])に対して、第一次[[マルカレ虐殺]]を含むサラエヴォの包囲と恐怖狙撃によって<ref>[http://www.un.org/icty/galic/trialc/judgement/gal-tj031205-1.htm#IIIC2 Galić verdict- 2. Sniping and Shelling of Civilians in Urban Bosnian Army-held Areas of Sarajevo]</ref>、ガリッチは[[人道に対する罪]]にて有罪とされ、終身刑を言い渡された<ref>[http://www.un.org/icty/cases-e/cis/galic/main-e.htm Galić: Crimes convicted of]</ref>。[[2007年]]、スタニスラヴ・ガリッチの後任として[[1994年]]8月から[[1995年]]末にかけてサラエヴォ=ロマニヤ軍団の将軍であったセルビア人の[[ドラゴミル・ミロシェヴィッチ]]([[:en:Dragomir Milošević|Dragomir Milošević]])に対して、第2次マルカレ虐殺
== 戦闘 ==
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紛争の初期段階にあった数か月の間に、ユーゴスラビア人民軍の部隊は、サラエヴォを取り囲む丘陵地帯に配置された。[[大砲]]やそのほか多くの装備はこのときに持ち込まれたものであり、後に続く包囲戦において重要な役割を果たすことになる。[[1992年]]2月、ボスニア・ヘルツェゴビナ政府は、ユーゴスラビア政府に対して、これらのユーゴスラビアの軍の配備を中止するよう求めた。このときのユーゴスラビアを事実上支配していた[[セルビア共和国 (1992年-2006年)|セルビア共和国]]の大統領[[スロボダン・ミロシェヴィッチ]]は、ボスニア・ヘルツェゴビナとの国境の外側にいるユーゴスラビア人民軍の一部を撤退させることに同意した。しかし、これらのユーゴスラビア人民軍に属していたセルビア人兵士らは、[[スルプスカ共和国軍]]となってボスニア・ヘルツェゴビナ国内にとどまり、ボスニア・ヘルツェゴビナからのスルプスカ共和国の独立を宣言した。
1992年5月2日、ボスニアのセルビア人勢力によるサラエヴォの完全封鎖が完成した。町へと続く主要な道路は封鎖され、食料や医療品の運び込みも不可能となった。水や電気、暖房システムは遮断された。多くのセルビア人兵士らがサラエヴォを取り巻いていた。町を守るボスニア政府軍は数の上ではセルビア人勢力を上回っていたものの、セルビア人勢力はユーゴスラビア連邦から装備を引き継いでおり、また町を見下ろす丘の上に陣取っていた
=== サラエヴォ包囲 ===
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