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[[画像:DSC01217-sm.jpg|thumb|225px|エレブニ出土のアルギシュティによる定礎碑文(レプリカ。エレバンのエレブニ博物館蔵)]]
'''アルギシュティ1世'''('''Argišti I''', アルギシュティス Argishtisとも。[[アルメニア語]]:Արգիշտի)は、[[ウラルトゥ]]の王。在位:紀元前785年頃‐753年頃。ウラルトゥ王国最盛期の王の一人。
 
 
== 来歴 ==
ウラルトゥ王[[メヌア]]の息子。父親の拡張政策を継承し、北東方面では[[セヴァン湖]]まで進出。南西では北[[歴史的シリア|シリア]]に影響力を及ぼし、宿敵[[アッシリア]]帝国にとって[[鉄]]と[[ウマ|馬]]の主要供給源である[[アナトリア半島]]との交易路を脅かした。その結果ウラルトゥの領土は現在の国名でいえば[[アゼルバイジャン]]から[[シリア]]にまでまたがる大きなものになった。[[ザカフカジエ|トランスコーカサス]]の鉱物資源、とりわけ[[銅]]山を手に入れ、また周辺の服属国から金属を貢納させたため、ウラルトゥでは優れた金属工芸が発達した。
 
アルギシュティは領土支配を固めるため数多くの都市を建設したが、中でも自分の名をつけたアルギシュティヒニリ(現在の[[アルマヴィル (アルメニア)|アルマヴィル]])と、現在の[[アルメニア]]共和国の首都[[エレバン]]の起源となったエレブニが有名で、共にトランスコーカサスにおける支配拠点として建設された。このうちエレブニには、西方の後期[[ヒッタイト]]諸国から捕虜として連行した住民を最初に入植させた。このほかアルギシュティの残した碑文から、彼がさかんに神殿や宮殿を建設したこと、そして用水路建設や果樹園の経営といった農業振興に力を入れたことが窺える。
 
首都トゥシュパ([[ヴァン]])に残された碑文は、彼の治世に関する詳しい情報を伝えている。19発見されているアルギシュティの碑文のうち12までがトランスコーカサスから発見されていることは、アルギシュティの国家経営がこんにちの[[アルメニア]]にあたるこの地域に集中していたことを示唆している。
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== 文献 ==
{{lang|ru|
*Пиотровский Б. Б. ''Ванское царство (Урарту),'' Издательство Восточной литературы, Москва, 1959
:(邦訳)『埋もれた古代王国の謎 幻の国ウラルトゥを探る』(ボリス・ボリソヴィッチ・ピオトロフスキ-著 加藤九祚訳 岩波書店) ISBN: 9784000001601 (4000001604)
*Меликишвили Г. А. ''Урартские клинообразные надписи'', Издательство АН СССР, Москва, 1960
}}
 
== 外部リンク ==