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『'''歴史の研究'''』とは1934年から1954年にかけてイギリスの歴史家[[アーノルド・J・トインビー]]によって発表執筆された歴史の著作である。
 
==概要==
1889年に生まれたトインビーは[[オックスフォード大学]]で古典学を学び、外務省でパリ講和会議で専門委員会に携わり、また王立国際問題研究所の部長として勤務した経験もある。1914年に[[第一次世界大戦]]が勃発していた時期にトインビーはオックスフォード大学で[[トゥキディデス]]の『[[戦史]]』を講義していたが、[[ペロポネソス戦争]]に直面した古代ギリシアと世界大戦に直面するヨーロッパ文明が類似しているという着想を得て、その視座を世界全体に拡大する本書『歴史の研究』の構想が準備されていった。本書は12巻から成り立っており、まず1934年から1961に3巻までが、1399年にわたって執筆6巻までが、1954年に10巻までが出版された大作であるトインビーは本書で古代か現代までの歴史おける国家では考察しく21の文明を取り上げ、世界史的観点からその文明の歴史を理解する視座を提示したものが1961年に第11巻と第12巻として発表される
 
まずトインビーは国家を中心とする歴史観を否定し、文明社会を中心とした歴史観を提示する。トインビーは西欧文明の優位を退けながら、第一代文明である[[シュメール]]、[[エジプト]]、[[ミノス]]、[[インダス]]、[[殷]]、[[マヤ]]、[[アンデス]]、第二代文明であるヘレニック([[ギリシア]]・[[ローマ]])、[[シリア]]、[[ヒッタイト]]、[[バビロニア]]、[[インド]]、[[中国]]、[[メキシコ]]、[[ユカタン]]、そして第三代文明である[[ヨーロッパ]]、[[ギリシア正教]]、[[ロシア]]、[[イラン]]、[[アラブ]]、[[ヒンドゥー]]、[[極東]]、[[日本]]、[[朝鮮]]、以上の21の文明を世界史的な観点から記述することを試みる。トインビーはこの第三代までの諸文明は歴史的に概観すると親子関係にあり、文明は発生、成長、衰退、解体を経て次の世代の文明へと移行すると考えていた。
トインビーがこのような歴史観に基づいて、古代の[[ローマ帝国]]の西側の国境が[[ライン川]]で前進を停止した理由について[[アウグストゥス]]の時代まで続いた戦争と革命がローマの勢力を低下させたと説明する。またライン川で境界線が停止した理由についてはゲルマン民族との遭遇した地点であったと考える。トインビーはさらにローマ帝国だけでなく[[ペルシア帝国]]や[[中華文明|中華帝国]]のように野蛮世界に対して文明世界を代表する国家を取り上げて、それらを世界国家と位置づけた。これは西欧文明だけが世界で唯一の文明であるという世界観に対して反論を加えるものであり、西欧だけでなく複数の文明を相対的に対等なものと見なした。
 
トインビーがこのような歴史観に基づきながら文明は外部における自然・人間環境と創造的な指導者の二つの条件によって発生し、[[気候変動]]や自然環境、[[戦争]]、民族移動、[[人口]]の増大の挑戦に応戦しながら成長する。しかし文明は挑戦に応戦することに失敗することによって弱体化をはじめ、衰退に向かうようになる。そこで指導者は新しい事態への対応能力を失い、社会は指導者に従わなくなり、統一性が損なわれる。最後には内部分裂が進むことで指導者は保身のために権力を強化し、結果的に大衆は[[プロレタリアート]]による反抗を通じて文明は解体されるとトインビーは定式化する。
西欧文明を中心とした歴史観に基づいた東方に対する固定観念は、文明が直線的に発展するという歴史的事実の過剰な単純化によって生じたものであり、正しいものではないとトインビーは指摘する。西欧の歴史をそのまま世界の歴史と見なすことは世界全体の歴史を概観すれば誤っていることが分かる。
 
==参考文献==
*長谷川松治訳『世界の名著 歴史の研究』(中央公論社)
*「歴史の研究」刊行会訳『歴史の研究』経済往来社、1966-1972年
 
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