「プファルツ選帝侯領」の版間の差分

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===初期歴史===
最後のエッツォーネン家の宮中伯死後に[[ヘルマン2世_(ロタリンギア宮中伯)|ロタリンギア宮中伯ヘルマン2世]]が統治した[[1085年|1085]][[1086年|/6年]]頃から宮中伯領はロタリンギアにおける軍事的重要性を失った。宮中伯の領土的権威はライン川一帯のヘルマン2世の宮廷では'''[[ライン宮中伯]]'''と呼ばれるほど減っていった。
 
最初のライン地方の宮中伯の世襲は[[神聖ローマ皇帝]][[フリードリヒ1世_(神聖ローマ皇帝)|フリードリヒ1世赤髭王]]の弟である[[コンラート_(ライン宮中伯)|コンラート]]になされた。この領域と結び付いた世襲の官職は[[フランケン地方]]とラインランド地方を掌握した[[ホーエンシュタウフェン朝|ホーエンシュタウフェン家]]によって始められた(ホーエンシュタウフェン家の分家は[[シュヴァーベン]]地方や[[フランシュ=コンテ地域圏]]等を受け継いだ)。宮中伯領の大部分は[[神聖ローマ帝国]]の祖先である[[フランク帝国]]の領域であり、残りはコンラートが母方の祖先である[[ザールブリュッケン]]から受け継いだものであった。これらの背景が何世紀にも渡る上及びライン=プファルツの構成要素だと説明される。
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===帝国崩壊後===
1806年にバーデンは[[大公国]]に昇格し、マンハイムを含む嘗てのプファルツは新しい大公国となった。[[1814年]]から[[1815年]]の[[ウィーン会議]]でプファルツの左側(嘗ての[[シュパイアー司教領]]のような他の統治者達によって拡大化された)はヴィッテルスバッハ家のもとに戻り、[[1816年]]に正式に[[バイエルン王国]]の一部となり、その時以来、[[プファルツ地方|この地方]]は主にプファルツとして知られるようになった。この地区は[[第二次世界大戦]]後までバイエルンの一部であり、大戦後には分割して[[プロイセン王国|プロイセン]]及び[[ヘッセン大公国|ヘッセン=ダルムシュタット]]の旧領土の西側とともに新たに[[ラインファルラント=プファルツ]]となった。
 
==紋章==