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[[1308年]]までにグダニスクは1万人を超える人口を抱える繁栄した貿易港となっていたが、[[1308年]][[11月13日]]に[[チュートン騎士団]](ドイツ騎士団)に占領された。この結果チュートン騎士団と[[ポーランド王国]]との間で戦争となった。[[1343年]]にカリシュの和約([[:en:Treaty of kalish (1343)|Treaty of Kalisz]])が結ばれ、ポーランド王から[[ポメラニア]]地方がチュートン騎士団に貸与されることとなった。この地方の帰属問題はまだ残っていたが、カリシュの和約によって[[1343年]]にグダニスクが自治体としての基礎を確立し、穀物(特に小麦)、木材、炭酸カリウム、タールその他ポーランドの森から産出され[[ヴィスワ川]]の運送網を経由してやってくるさまざまな品物の輸出の促進がなされることになった。
 
グダニスクはチュートン騎士団の支配下で成長し、ドイツからの移民が増加し、 [[1361年]]に[[ハンザ同盟]]の正式な加盟都市となった。[[1409年]]勃発した新たな戦争は、[[1410年]]の[[グルンヴァルトの戦い]]におけるポーランド王国の勝利によって終結した。グダニスクは以前からチュートン騎士団の支配を嫌ってポーランド王国への帰属を望んでおり、ついにその望みがかなうことになった。しかし翌年に締結した[[第1次トルニ和約]]によって、グダニスクはチュートン騎士団の支配下に戻った。[[1440年]]グダニスクは、チュートン騎士団に対抗しポーランド王国の庇護を求める[[プロシア連合]]の設立に参加し、チュートン騎士団の[[利権]]の排除を目指して[[ポーランド王国]]と同盟し戦争を起こした(13年戦争)。
 
=== 近世 ===
[[ファイル:Danzig in XVII century.jpg|thumb|350px|17世紀の繁栄の様子]]
==== 黄金時代 ====
13年戦争は[[1457年]][[5月25日]]にポーランド側の勝利によって終結し、ポーランド王[[カジミェシュ4世 (ポーランド王)|カジミェシュ4世]]によってグダニスクはポーランド王国の自治都市としての特権を与えられた。グダニスクはハンザ同盟の他の諸都市との貿易に加えて、ポーランド国内の市場への参加も認められるようになり、以後大いに繁栄することになった。[[1466年]]にポーランド王国とチュートン騎士団との間で締結された[[第2次トルニ和約]]と、[[ポーランド王領プロシア]]の確立によって、ポーランド王国とチュートン騎士団との戦争は完全に終結した。これによってグダニスクはチュートン騎士団の利権を完全に排除して大幅な自治権を実質的にも確立することになり、これは[[1577年]]に再確認された。こうしてポーランド王国の直接の庇護を得た[[16世紀]]と[[17世紀]]はグダニスクの貿易と文化にとってまさに「黄金時代」であった。市民はドイツ人が比較的多かったが、[[ポーランド人]]、[[ユダヤ人]]、[[オランダ人]]、も多数住んでいた。さらに[[スコットランド人]][[難民]]もやってきて市民権を得た。有名な[[天文学者]]の[[ヨハネス・ヘヴェリウス]]が業績を残したのもこの時代であるが、彼の父親は[[チェコ人]]移民でグダニスクで[[ビール]][[醸造]]業を営んでいた。これら多民族の住民が混住することにより、街は繁栄を極めた。[[宗教改革]]の時代には多くの市民が[[ルーテル教会|ルーテル派]](主にドイツ系やポーランド系の中産階級)や[[カルヴァン派]](主にオランダ系やスコットランド系の中産階級やポーランド人[[貴族]])を受け入れた。しかし[[ローマ・カトリック教会|カトリック]]教徒との深刻な対立はみられなかった。これは時代によって程度の違いこそあれ、ポーランド王国には一貫して[[民族]]・[[人種]]・[[宗派]]・[[宗教]]の違いを受け入れる寛容な風土があったからである。
 
==== ポーランド王国の消滅と街の運命 ====