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高綱の名が後世まで高く語り継がれる一方で、子孫は振わず、『[[尊卑分脈]]』をはじめとする諸系図に[[鎌倉時代]]の数代が載るほかは、出雲千家文書所収の文永8年の関東御教書(1271年)に、出雲国内の能義郡乃白庄、意宇郡乃木保、神戸郡木津御島の地頭(又は荘官)として、光綱の子と思われる乃木姓の一族の記載があるなど、一次資料に断片的に名を留めるのみである。なお、野木、乃木、能義、野城の表記が通じて用いられている。
 
[[大身]]の武家となる有力な系統が出なかったため、[[室町時代]]以降の詳細は不明であるが、隠岐流・佐々木氏の宗家である[[塩冶氏]]が追討された後は、出雲[[守護]]となった[[山名氏]]や[[京極氏]]などの[[被官]]として[[伯耆国]]や[[内]]などに分散していった模様である。
 
天文3年(1535年)の但馬國宮内惣持寺本尊造立奉加帳には、乃木日向守、乃木丹後守の名が記載されている。但馬國宮内には、山名氏宗家の居城である此隈山城があるが、同城の武家屋敷跡から出土した永禄12年(1569年)8月24日付の木札にも乃木出羽守の記載があり、山名氏家臣団に組み込まれた系統があったのは確かであろう。