「ファビアン・フォン・シュラーブレンドルフ」の版間の差分

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1943年3月13日、[[アドルフ・ヒトラー|ヒトラー]]がスモレンスク前線視察を行った際、トレスコウはヒトラーの搭乗機に爆弾を仕掛ける計画を行った。実行役がシュラーブレンドルフで、トレスコウから預かった爆弾の仕掛けられたリキュール瓶を搭乗機に持ち込んだ。しかしながらロシアの寒気と雷管に欠陥があったため爆弾は動作せず、計画は失敗に終わった。爆弾は翌日彼によって密かに回収され計画が明るみに出ることはなかった。
 
1944年7月20日に[[クラウス・フォン・シュタウフェンベルク]]大佐が実行犯となった[[ヒトラー暗殺計画]]が失敗に終わり、軍や政府内の反ヒトラー派の検挙が始まった。シュラーブレンドルフも同年8月17日に逮捕され、ベルリンの[[ゲシュタポ]]の監獄に拘束され、訊問と拷問を受けたが、決して口を割らなかった。1945年2月3日にシュラーブレンドルフは[[人民法廷]]で裁判の開始を待っていたが、法廷はアメリカ軍機の爆弾の直撃を受け裁判官[[ローラント・フライスラー]]が死亡。フライスラーはシュラーブレンドルフのファイルを抱えたままの姿で発見された。「死の裁判官」フライスラーの急死の結果、シュラーブレンドルフは死刑を免れた。
 
シュラーブレンドルフは、1945年2月に[[人民法廷]]で裁判を受けることとなっていた。しかし、1945年2月3日に法廷はアメリカ軍機の爆弾の直撃を受け、裁判官[[ローラント・フライスラー]]が死亡。フライスラーはシュラーブレンドルフのファイルを抱えたままの姿で発見された。シュラーブレンドルフの裁判は、1945年3月にフライスラーの後任ヴィルヘルム・クローネによって行われ、シュラーブレンドルフは放免された。「死の裁判官」フライスラーの急死の結果、シュラーブレンドルフは死刑を免れたわけである。なお、ヴィルヘルム・クローネは、1945年4月26日に自ら命を絶っている。
1945年の2月から5月までシュラーブレンドルフはザクセンハウゼン、フロッセンブルク、ダッハウ、インスブルックといった強制収容所に収容され、監視役の親衛隊員が逃亡してドイツが降伏した後の5月に[[アメリカ軍]]によって解放された。
 
1945年の23月から5月までシュラーブレンドルフは[[ザクセンハウゼン強制収容所|ザクセンハウゼン]][[フロッセンビュルク強制収容所|フロッセンビュルク]][[ダッハウ、インスブル強制収容所|ダハウ]]、といった強制収容所に収容された後監視役連合軍親衛隊員手に渡らないようにチロルへ移送された逃亡してドイツが降伏した後の5月になり、[[アメリカ軍]]によって解放された。
 
1946年、軍部内の反ヒトラー抵抗運動に関する最初の書物となる手記を刊行。1967年から1975年まで[[ドイツ連邦共和国]]の[[連邦憲法裁判所]]の裁判官を務める。[[ヴィースバーデン]]で死去した。