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アズネーフチは、元はロシア帝国時代に[[スヴェトラーナ級軽巡洋艦]]の4番艦として起工された軽巡洋艦'''アドミラール・グレーイク'''('''{{lang|ru|Адмирал Грейг}}''')であった。
 
艦名は、[[イギリス海軍]]出身で[[ロシア帝国海軍|ロシア帝国]][[海軍大将]]にまでなった[[サムイル・グレイグ|サムイール・カルローヴィチ・グレーイク]](サミュエル・グレイグ;[[1737年]] - [[1788年]])に由来していたする。グレイグは、[[1764年]]に帝国海軍へ[[大佐]]として入隊し、すぐに[[フリゲート]]・[[スヴャトーイ・セールギイ_(フリゲート)|スヴャトーイ・セールギイ]]({{lang|ru|Св. Сергий}})及び[[戦列艦]][[トリョーフ・イエラールホフ_(戦列艦)|トリョーフ・イエラールホフ]]({{lang|ru|Трех Иерархов}})の指揮官に任命された。特に[[1770年]][[6月26日]]に[[チェシュメ]]湾([[チェスマー湾]])で行われた[[チェシュメの戦い]]([[チェスマーの戦い]])では、[[オスマン帝国]]艦隊の焼き討ちに功を上げた。また、[[1788年]]には[[バルチック艦隊|バルト艦隊]]を率いて[[スウェーデン]]の艦隊を[[ゴトランドの戦い]]で破っている
 
しかし、アドミラール・グレーイクは[[第一次世界大戦]]の前年の[[1913年]]に起工された。しかしその後の建造は[[ロシア革命]]やその後の[[ロシア内戦]]の影響で遅れ、最終的に建造軍艦としての完成中止断念された。その残っめ、アドミラール・グレーイク船体は[[1926年]]に[[軽油|ディーゼル燃料]]のタンカーに改装されることになった。名称も'''アズネーフチ'''と改められ、正式な民間[[船舶]]として登録された。同様の経緯で改装され[[グロズネーフチ_(油槽船)|グロズネーフチ]]と改称された姉妹艦アドミラール・スピリードフとともに、アズネーフチは[[サンクトペテルブルク|レニングラート]]の企業[[エレクトロラジオアフトマーチカ]](ERA)の所有船となり、高速力を生かしたタンカーとして運用された。
 
しかし、[[1937年]][[12月23日]]に[[トゥアプセ]](ロシア南部黒海沿岸の町)の沖合い停泊地において強烈な時化に遭った。この際、押し寄せる波によって錨から船体が捥ぎ取られ防波堤壁へと打ち付けられた。その衝撃で二箇所に致命的な破壊が生じ、アズネーフチは完全に現役を退かざるを得なくなった。