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'''橘 外男'''(たちばな そとお、[[1894年]][[10月10日]] - [[1959年]][[7月9日]])は、[[日本]]の[[小説家]]。[[石川県]]出身。甥に[[少年画報社]]の漫画編集者で『[[ヤングコミック]]』創刊者の橘賢がいる。
 
陸軍歩兵大佐[[橘七三郎]]の三男として金沢に生まれ<!--るが、厳格な躾に反発して中学を退学処分になり-->、北海道の親戚に預けられる。15,6歳から小説に熱中して、いくつかの中学校を諭旨退学となり、父に勘当されて不良少年となり、21歳の時に刑務所に入り、その経験を『私は前科者である』、『ある小説家の思い出』に書いている。
 
27歳で妹の死去に逢い発奮して小説『太陽の沈みゆく時』を刊行。大正年間にキリスト教の影響の強い小説を書いていたが、作家として世に出るのは[[1936年]]に「[[文藝春秋]]」の実話小説の懸賞募集に『酒場ルーレット紛擾記(バー ルーレット トラブル)』が入選してからである。この頃には以前とは打って変わった饒舌体と呼ばれる独自の文体を身につけている。[[1938年]][[ナリン殿下への回想]]』で第7回[[直木賞]]を受賞した。
 
戦前は貿易会社や医療機器店等に勤務していたが、戦争で海外貿易が縮小したこともあり、[[1942年]]と[[1943年]]に[[満州国]]に家族で移住している。1度目の渡満で最初[[満州書籍配給株式会社]]に勤務したが、満州の衛生状態の悪さに辟易して帰国した。2度目は[[満洲映画協会|満州映画協会]]に嘱託として勤務し、そのまま終戦を迎え、[[1946年]]に帰国した。
 
戦直後の[[新京]]では、敗戦国民であにおけ日本人は物資不足とビエトによるの横行と略奪に苦しめられた。この時の経験を基にして書かれた「満州物」と呼ばれる一連の小説は、独自の文体と相俟って、その悲惨さを余すところなく伝えており、資料的にも高い価値がある。
 
帰国後は[[カストリ雑誌]]から少女誌まで幅広く活躍し、その内容も怪談から一種のSF物と多様である。