「百武源吾」の版間の差分

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大正2年([[1913年]])に初めて赤煉瓦勤務となり、[[軍令部]]参謀・教育本部第2部員を兼任した。大正4年([[1915年]])から2年間、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]に駐在する。ここでアメリカの国情を詳細にわたって研究し、[[日露戦争]]後にアメリカを仮想敵と定めた海軍の方針が無謀なものであることを悟り、対米協調路線を推進する決意を固めた。しかし、帰国して海軍大学校教官に任じられ、2年間にわたって学生に対米協調の重要性を説き続けたが、血気盛んな学生は「百武教官は恐米論者」と反発を強め、受け入れられなかった。
 
大佐に昇進した百武は、大正10年([[1921年]])に「[[多摩 (軽巡洋艦)|多摩]]」艦長に任じられ、初めて艦長職に就いた。イギリスの[[エドワード8世 (イギリス王)|エドワード]][[皇太子|王太子]]の訪日に際し、御召艦「[[レナウン (巡洋戦艦)|レナウン]]」に同伴を命じられたり、[[下関港|下関]]に停泊中、運炭船が「多摩」に激突沈没した事故の責任を問われて軍法会議で無罪を勝ち取ったり、「多摩」艦長時代は百武にとって激動の時期であった。感激のあまり、任期中に生まれた末娘の七女に「多摩」と命名した。だが一方、直属の上司である第3戦隊司令官に、実の兄である三郎少将が着任して窮屈な思いもしている。以後、兄弟が同じ指揮系統に並ばないよう人事上の配慮が強化されることになる。
 
「春日」艦長・教育局第1課長・軍令部参謀を経て、大正14年([[1925年]])に国連軍縮会議海軍代表に任じられ、交渉を通じてさらに対外協調路線の重要性を説くようになった。その結果、帰国後に海軍大学校教頭に就任し、以前の教官時代以上に協調路線を熱く学生に説くようになった。