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Twilight2640 (会話 | 投稿記録)
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[[image:SaruHashi2005-8a.jpg|thumb|260px|none|下から見た猿橋(2005年8月)]]
[[image:SaruHashi2005-8b.jpg|thumb|260px|none|北から見た猿橋(2005年8月)]]
[[image:Yatsuzawa-aqueduct bridge-1.jpg|thumb|260px|none|猿橋から下流方向の眺め(2008年9月)。下に見えるのは八ツ沢発電所一号水路橋、上に見える赤い橋は国道20号の新猿橋。]]
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この様な構造の橋は猿橋に限られなかったが、江戸時代には猿橋が最も有名で、日本三奇橋の一つとされた。甲州街道沿いの要地(宿場)にあるため往来が多く、[[歌川広重]]は天保12年(1841年)に甲府町人から甲府道祖神祭りの幕絵製作を依頼されて甲斐を訪れた際にスケッチを行い(『[[甲州日記]]』所載)、後に大型錦絵「甲陽猿橋図」を手がけている。また[[荻生徂徠]]など多くの文人が訪れ紀行文や詩句を作成しており、明治期には富岡鉄斎が「甲斐猿橋図」([[大木コレクション]])を描いている。
 
[[1932年]]([[昭和]]7年)に国の[[名勝]]に指定された。[[1934年]]に上流に[[新猿橋]]が造られ、[[国道]](当時は国道8号、現在は山梨県道505号)はそちらを通るようになった。[[1973年]](昭和48年)には別の新猿橋が下流に造られ、国道20号が通るようになった。これら二つは今も並存する。
 
古い猿橋を継承するものとしては、H鋼に木の板を取り付け、岸の基盤をコンクリートで固めた橋が、[[1984年]](昭和59年)に架け替えられた。これが現在の猿橋で、部材を鋼に変えて[[1851年]]([[嘉永]]4年)の橋を復元したものである。
 
なお、[[1902年]]([[明治]]35年)に[[中央本線]][[鳥沢駅|鳥沢]]~[[大月駅|大月]]間開業した際には猿橋の脇を通っていたため、列車内から橋が眺められた。しかし、[[1968年]](昭和43年)[[梁川駅 (山梨県)|梁川]]~[[猿橋駅|猿橋]]間複線化の際に途中駅の鳥沢駅から[[中央本線新桂川橋梁|新桂川鉄橋]]で桂川を渡り、猿橋駅に至る南回りのルートに変更されたため、列車内から橋を眺めることはできなくなってしまった。
 
この橋の近くでは[[室町時代]]の[[1426年]]([[応永]]33年)[[鎌倉公方]][[足利持氏]]配下の[[一色時家|一色持家]]と[[甲斐国|甲斐]]の[[国人]][[武田信長]]交戦、一色が勝利して破り、武田信長を[[鎌倉]]へ捕虜として連れ去ったとされる(猿橋の戦い)。
 
== 関連項目 ==