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懐徳堂で弟の富永定堅とともに[[三宅石庵]]に学ぶ。独特の[[大乗非仏説]]([[法華経]]、[[般若経]]など、いわゆる[[大乗仏教]]の経典は[[釈迦]]の言行ではなく、後世の産物という主張)によって[[儒教]]を批判したため破門されたというが、これは富永を批判する仏教僧側からの主張であるので事実としては疑われている。その後[[田中桐江]]のもとで詩文を修め、また黄檗宗の仏典の研究に励んだ。
 
また、大乗
 
元文3年24歳で、『[[翁の文]]』を著述、のち延亭2年仏教思想の批判的研究書『[[出定後語]]』を刊行、翌年32歳の若さで夭折した。