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'''BMW・M1'''は、1970年代に[[モータースポーツ]]での活躍を期待したことに端を発する、[[ドイツ]]の[[自動車]]メーカー、[[BMW]]の[[スーパーカー]]である。
 
== スタイル・機構 ==
1976年にBMWモータースポーツ(現[[BMW M]])は、当時[[ポルシェ・934]]や[[ポルシェ・935]]の独壇場だったグループ4およびグループ5シルエットフォーミュラを制するため'''E-26'''の開発を始めた。
 
当初想定されていた自社製のV型12気筒4.5Lエンジンは、大きく重く明らかにエコロジーとは無縁であったため、[[オイルショック]]の風が吹く中一般世論に反するものとして葬り去られることになり、代わりにヨーロッパツーリングカーレース用に開発されたM-88型3453cc直列6気筒DOHCエンジンがクーゲルフィッシャーの機械式[[燃料噴射装置|インジェクション]]と組み合わせ採用された。このユニットは長大でありその結果ホイールベースの延長という弊害をもたらしたが、潤滑系統に[[ドライサンプ]]方式を採用することによりエンジンの搭載位置を大幅に下げ重心を低くすることを可能とした。そのためクランク軸は地上から18.5cmに設定されている。圧縮比9.0で277馬力/6500rpmのロード仕様、圧縮比11.5で470馬力/9000rpmのグループ4仕様、3153ccにKKKターボを装着し850馬力/9000rpmのグループ5仕様が用意された。
M1は、1972年に''BMWミュンヘン博物館''の開館を記念して作られた'''BMWターボ'''をそのルーツとする。[[BMW・2002]]用の直列4気筒ターボを[[ミッドシップ]]に搭載したこの車は、M1プロジェクトの精神的なモチーフになったと言えよう。
開発段階の初期には'''E-26'''と呼ばれていたM1は、ヨーロッパGTカーレース、中でもポルシェを始めとするモンスター勢ひしめくグループ4およびグループ5への参戦を目標としていた。心臓部に自社製の4.5リッターV型12気筒エンジンを用意し、ボディデザインに巨匠[[ジョルジェット・ジウジアーロ]]を起用したことからも、M1の完成にかけるBMWの本気度合いを伺うことができる。
 
ボディデザインは巨匠[[ジョルジェット・ジウジアーロ]]が率いる[[イタルデザイン]]に依頼した。イタルデザインは、1972年に[[BMW・2002]]用の直列4気筒ターボを[[ミッドシップ]]に搭載しBMWミュンヘン博物館開館記念で製作された'''BMWターボ'''のフロント部分のデザインを取り入れた。
しかし、[[オイルショック]]の風が吹く中、大きく重く、明らかにエコロジーとは無縁なV型12気筒エンジンは、一般世論に反するものとして葬り去られることになる。更に、BMWのレース用車両の開発を手がけていた[[M Gmbh|BMWモータースポーツ]]社の開発・製造キャパシティは既存プロジェクトで手一杯で、とてもM1の開発を請け負っていられる状況ではなかった。そこで、事実上操業停止状態にあり、経営破綻の危機に限りなく近づいていた[[ランボルギーニ]]社にシャシー関連の製造の全てを託すこととなる。
 
ミッドシップの駆動方式は全く未経験であったため、BMWは[[ランボルギーニ]]<ref>当時オイルショックの影響で事実上操業停止状態にあり、経営破綻の危機に限りなく近づいていた。</ref>に開発とシャシー関連の製造を委託することとなった。開発は、レーシングカー関連の設計を手がけ、のちにレーシングカーのシャシー製作会社を興した[[ジャンパオロ・ダラーラ]]が担当した。シャシーは角型鋼で形成されたマルケージ製セミスペースフレームを採用し、全ての応力を強靭なフレームのみで受け止める構造となっている。そのためおり、応力のかからない外板は全て[[繊維強化プラスチック|FRP]]製で、ボルトオンと接着を併用して取り付けられている。
 
ランボルギーニによる開発は順調に進み、1977年夏には最初の試作車が走行した。
心臓部には、撤回されたV型12気筒エンジンに代わり、ヨーロッパツーリングカーレース用に開発されたM88型直列6気筒DOHCエンジンが採用された。3.5リッターの排気量を持つこのエンジンは、クーゲルフィッシャー社の機械式[[燃料噴射装置|インジェクション]]を組み合わせ、リミッター直前の6500回転で277馬力を発生させる。また、低回転域から分厚いトルクを発生する特性は、ビッグシックスエンジンの典型である。
 
このユニットは長大であり、その結果ホイールベースの延長という弊害をもたらしたが、潤滑系統に、エンジン自体を上に持ち上げてしまう[[ウェットサンプ]]方式ではなく、エンジン下に垂れ流れるオイルを受けるための[[オイルパン]]を事実上取り払うことができる[[ドライサンプ]]方式を採用することにより、重心の高いエンジンの搭載位置を大幅に下げることを可能とした。そのため、[[軸|クランク軸]]は地上から18.5cmに設定されている。
 
== 生産に至るまで ==
まず、開発を担当したランボルギーニは、そのままシャシーの製造に着手したのだが、その作業あまりさ故にBMWかった。こはらわた事態煮えくり返させ打開すこととなる。ためBMWは、破綻寸前のランボルギーニ買収あっさり検討したが、下請け業者がBMWの傘下に入るこ見限りを拒否しこの買収計画は頓挫した。1978年4月ランボルギーニフレームを担当していた'''マルケージ'''社から提携は解消され、[[シュツットガルト]]の[[バウア (コーチビルダー)|バウア]]に委託先変更するされた。ボディの生産に関しては、ジョルジェット・ジウジアーロ率いる[[イタルデザイン]]の拠点である[[イタリア]]にシャシーが送られ、FRP外板の取り付けおよび塗装が行われた。そして、最終的にはBMWモータースポーツによって[[サスペンション]]や[[ブレーキ]]関連の組み付けが行われることとなり、1978年秋のパリサロンに'''BMW M1'''として発表された。
 
しかしこの複雑な生産工程もやはり非常識なまでに効率が悪く、そもそもわずか週2台に設定されていた生産ペースは遅れに遅れ、月3台前後がやっとという有様だった。グループ4の参戦条項である「連続する12ヶ月間に400台の生産」には遥か及ばず、レースに出ないまま終わってしまうことを危惧したBMWはワンメイクレース「プロカー・レース」を企画し、1979年途中から1980年末に掛けてフォーミュラ1の前座として開催され[[ニキ・ラウダ]]や[[ネルソン・ピケ]]など当時のトップクラスのF1パイロットがドライバーを務めそれなりの成功を収めた。
開発段階で様々な変更を余儀なくされたM1、開発名E-26は、実際の生産段階においてそれ以上の変遷を味わうこととなる。
 
それまでシャシーの製造のみを担当していたバウアに最終工程の一部も負担させ、1980年暮れに当初の目標であった400台目がラインオフした。「連続する12ヶ月間」という条件を特別に免除され1981年以降のグループ4参戦を認められたが、1982年には規則改正による新カテゴリー[[グループC]]が実施されることになっており、M1によるBMWのモータースポーツ活動は当初の意気込みとは裏腹に短命に終わることとなった。総生産台数は477台である。
まず、開発を担当したランボルギーニは、そのままシャシーの製造に着手したのだが、その作業のあまりの遅さ故にBMWのはらわたを煮えくり返させることとなる。BMWは、破綻寸前のランボルギーニをあっさりと見限り、ランボルギーニのフレームを担当していた'''マルケージ'''社から、[[シュツットガルト]]の[[バウア (コーチビルダー)]]に委託先を変更する。ボディの生産に関しては、ジョルジェット・ジウジアーロ率いる[[イタルデザイン]]社の拠点である[[イタリア]]にシャシーが送られ、FRP外板の取り付けおよび塗装が行われた。そして、最終的にはBMWモータースポーツによって[[サスペンション]]や[[ブレーキ]]関連の組み付けが行われた。
非常識なまでに生産能率が悪く、そもそもわずか週2台に設定されていた生産ペースは遅れに遅れ、月3台前後がやっとという有様だった。グループ4の参戦条項である「連続する12ヶ月間に400台の生産」には遥か及ばず、それまでシャシーの製造のみを担当していたバウア社に最終工程の一部を負担させ、ようやくグループ4参戦の足がかりを掴むことができたのは1980年の暮れになってからのことだった。とは言え、これは「連続する12ヶ月間」という条件を特別に免除されてのことだった。
 
== 脚注 ==
1981年からグループ4カテゴリーに参戦できるようにはなったものの、翌年には規則改正による新カテゴリーが実施されることになっていたため、M1によるBMWのモータースポーツ活動は、意気込みとは裏腹に短命に終わることとなる。
<references />
 
== 関連項目 ==
 
*[[BMW]]
*[[MBMW GmbhM|BMWモータースポーツ]]
*[[ランボルギーニ]]
*[[イタルデザイン]]