削除された内容 追加された内容
google mapリンク追加
40行目:
ラインはまもなく[[四式重爆撃機]](飛龍または飛竜)が占めるようになった。戦局が急を告げる中で、月産60機を突破したことが2度あったが、テストパイロットは工場長(兼務)も含めて3人しかいなかった。1回のテストで済む飛行機もあれば4回、5回と試験飛行しなければならないものもあって多忙を極めたという<ref name="あ航空史" />。
 
[[Image:handa_aerodrome_82.jpg|thumb|200px|中島飛行機半田工場の滑走路跡(国土画像情報(カラー空中写真)[1982年]:国土交通省による) [[半田市]]中午町、中億田町付近。写真左上から右下方向に滑走路がある。]]
飛行場の規模は、主滑走路が長さ1300m・幅60m、誘導走路が長さ1000m・幅30mであった。別に東西の補助滑走路も計画されたが、終戦にて実現できなかった<ref name="大府市資" />。主滑走路は北西端部が円形に膨らみ、マッチ棒のような形状をなしていた。同様な形状を近隣にあった[[中島飛行機]][[半田市|半田]]工場、陸軍の[[清洲飛行場]]も採用していた。
 
冬に風が強かったことを除けば、さほどむずかしい飛行場ではなかったという<ref name="あ航空史" />。