「狩野安信」の版間の差分

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元和9年([[1623年]])危篤に陥った宗家当主の[[狩野貞信]]には子供がいなかったため、一門の重鎮に当たる[[狩野長信]]と[[狩野吉信]]の話し合いの結果、当時10歳であった安信を貞信の養子として惣領家を嗣ぐことが決められた。伝存する作品を兄たちと比べると画才に恵まれていたとは言えず、探幽から様々な嫌がらせを受けたようである。探幽の息子の[[狩野探信]]に学んだ[[木村探元]]の画論書「三暁庵雑志」では「中橋家が宗家を継いだのは、安信が食いはぶれないようにするための探幽の配慮」といった史実と異なる悪意が込められた話や、「ある時、三兄弟が[[老中]]から絵を描くよう言われた際、探幽に「兄たち妙手が描くのを見ておれ」と申しつけられ恥をかかされた」といったエピソードが記されている。そうした探幽の[[いじめ]]を受ける中で、安信は、武者絵を描くためにわざわざ[[山鹿素行]]を訪れ、[[有職故実]]の教えを受けるなどの画技の研鑽に努め、寛文2年([[1662年]])には[[法眼]]に叙された。また、探幽の養子であり、探幽に実子が生まれてからは疎んじられた[[狩野益信]]や甥の[[狩野常信]]に娘を嫁がせ、探幽に対抗しつつ狩野家の結束を固める策をとっている。
 
絵画における安信の考え、いては狩野派を代表する画論としてしばしば引用されるのが、晩年の[[延宝]]8年([[1680年]])に弟子の[[狩野昌運]]に筆記させた「[[画道要訣]]」である。この中で安信は、優れた絵画には、天才が才能にまかせて描く「質画」と古典の学習を重ねた末に得る「学画」の二種類があり、どんなに素晴らしい絵でも一代限りの成果で終わってしまう「質画」よりも、古典を通じて後の絵師たちに伝達可能な「学画」の方が勝るとしている。ただし、安信は質画の良さまで否定したわけではなく、さらに「心性の眼を筆の先に徹する」心画とも言うべき姿勢をもっとも重視している。そうした言葉通り、粉本に依拠した丁寧でまじめな作品を残している。
 
弟子の英一蝶には、従来あまり影響を与えなかったとされていたが、近年、安信の画帖と一蝶の絵に幾つかの共通する図様が指摘されている。