「保守合同」の版間の差分

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一方、鳩山を初代総裁として政友会系を中心に結成された[[自由党#自由党 (日本 1945-1948, 1950-1955)|日本自由党]](以後合同や改称を経るが以下同党の略称で、最終的な正式名称にもなった「自由党」で統一する)は[[1946年]]の[[第23回衆議院議員総選挙|第23回衆院選]]で第一党となった。
 
ところが直後に鳩山・三木以下幹部の多くが公職追放の対象となってしまう(自由党は新人議員が多かっため、進歩党とは対照的に追放発令後も第一党を維持した)。そこで、占領軍の受けの良い親英米派の[[外務大臣 (日本)|外務大臣]][[吉田茂]]を[[内閣総理大臣|総理]]・[[総裁]]に擁立して危機を乗り越えようと考えたのである。
 
鳩山派の考えに反して、吉田は鳩山の公職追放解除後も政権は私物ではないとして、鳩山への政権移譲を拒絶する。この頃には鳩山から任された自由党は結成当初とはかけ離れたものとなっており、[[官僚]]出身の親吉田派の若手議員が多数を占めていた([[吉田学校]])。更に、吉田は鳩山の病気を口実に[[緒方竹虎]]を後継者にする事を決める。これをきっかけに自由党内は吉田支持派(官僚派中心)と鳩山支持派([[党人派]]中心)に事実上分裂する。