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Sapphire123 (会話 | 投稿記録)
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土佐藩士の中でも身分の低い微禄の家柄の息子として生まれた。[[1861年]]、[[江戸]]に出て[[安井息軒]]に師事し、様々な藩の志士と交流した。[[武市半平太]]と共に[[土佐勤王党]]の結成に尽力する。[[1863年]]、[[山内容堂]]の命令を受けて[[大坂]]・江戸の視察を命じられた。しかし容堂があくまで佐幕的な態度を貫いていたため、尊皇攘夷に好意を抱いていた内蔵太はこれを契機に土佐藩から脱藩して[[長州藩]]に逃げ込み、長州の[[尊皇攘夷]]運動に参加することにしたのである。そして長州軍の遊撃隊参謀となり、[[1863年]]5月10日のアメリカ船砲撃を指揮した。その後、[[天誅組]]の反乱に参加して天誅組が壊滅すると京都に潜伏し、[[1864年]]に長州藩が軍を率いて[[禁門の変]]を起こすと、長州軍の忠勇隊を指揮するなどして活躍している。しかしどうも、内蔵太には尊皇攘夷に傾倒していたのは確かだが、一元化した動きがなく、あちらこちらにと様々な行動を展開しているのである。
 
[[1865年]]、[[坂本龍馬]]が[[亀山社中]]を結成すると、内蔵太はそれに入社して龍馬と共に海軍創設に尽力する。しかし1866年、長崎から[[薩摩藩]]へ小型帆船・[[ワイル・ウエフ号|ワイルウェフ号]]を回航する途中で台風に遭遇し、内蔵太はワイルウェフ号と共に運命を共にすることとなった。享年26。
 
あまりに若すぎる死であり、龍馬は自分の後継者として期待していた内蔵太の死去を聞いたときに、「わしより先に死ぬ奴があるか。わしより生きれば、わし亡き後の海援隊を継がせるつもりだったのに」と嘆き悲しんだといわれている。
 
 
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