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{{出典の明記|date=2010年5月}}
'''佐藤 政養'''(さとう まさやす、[[文政1821年]]4年([[1821年文政]]4年)12月 -
[[明治1877年]]10年([[1877年明治]]10年)[[8月2日]])は、[[幕末]]から明治期の蘭学者、鉄道技術者。通称は与之助。
 
== 経歴 ==
[[出羽国]][[飽海郡]]弁川村の農民・[[佐藤与兵衛]]の長男。幼い頃から才気煥発で、
 
[[出羽国1844年]][[飽海郡]]弁川村の農民・[[佐藤与兵衛]]の長男。幼い頃から才気煥発で、[[弘化]]元年([[1844年]])[[庄内藩]]の選抜で江戸に上り、[[広木貫助]]に砲術を、[[勝海舟]]に蘭学を、[[伊藤鳳山]]に漢籍を、[[佐藤恒俊]]に彫刻を学んだ。[[安政1857年]]4年([[1857年安政]]4年)海軍伝習生として[[グイド・フルベッキ]]に測量や軍艦操練を学ぶ。安政6年([[1856年]](安政6年)庄内藩組外徒士格、幕府[[軍艦操練所]]書簡翻訳方として役付きとなった。[[文久1862年]]2年([[1862年文久]]2年)大坂大場詰め鉄砲奉行、[[元治1864年]]元年([[1864年元治]]元年)[[征夷大将軍]]・[[徳川家茂]]の軍艦巡察に帯同した。また幕閣に[[横浜港]]開港を建議するなどの活動もしている。
 
[[出羽国]][[飽海郡]]弁川村の農民・[[佐藤与兵衛]]の長男。幼い頃から才気煥発で、[[弘化]]元年([[1844年]])[[庄内藩]]の選抜で江戸に上り、[[広木貫助]]に砲術を、[[勝海舟]]に蘭学を、[[伊藤鳳山]]に漢籍を、[[佐藤恒俊]]に彫刻を学んだ。[[安政]]4年([[1857年]])海軍伝習生として[[グイド・フルベッキ]]に測量や軍艦操練を学ぶ。安政6年([[1856年]])庄内藩組外徒士格、幕府[[軍艦操練所]]書簡翻訳方として役付きとなった。[[文久]]2年([[1862年]])大坂大場詰め鉄砲奉行、[[元治]]元年([[1864年]])[[征夷大将軍]]・[[徳川家茂]]の軍艦巡察に帯同した。また幕閣に[[横浜港]]開港を建議するなどの活動もしている。
 
維新後は[[民部省]]の鉄道助となり、新橋-横浜間の鉄道敷設に尽力した。
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{{DEFAULTSORT:さとう まさやす}}
[[Category:幕府の海事官僚]]
[[Category:日本国有鉄道の人物官僚]]
[[Category:蘭学者]]
[[Category:幕末庄内藩の人物]]
[[Category:蘭学者]]
[[Category:幕府の海事官僚]]
[[Category:日本国有鉄道の人物]]
[[Category:1821年生]]
[[Category:1877年没]]