「ティベリウス・センプロニウス・グラックス・マイヨル」の版間の差分

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'''ティベリウス・センプロニウス・グラックス・マイヨル'''(ラテン語:'''{{lang-la|Tiberius Sempronius Gracchus Maior}}''', [[紀元前217年]]頃 - [[紀元前154年]])は、[[共和政ローマ]]時代の軍人・[[元老院 (ローマ)|元老院]]議員。[[プレブス]]系[[センプロニウス氏族]]グラックス家の出自。[[グラックス兄弟]]の父親になる。また同名の息子と区別するために「'''大グラックス'''(グラックス・マイヨル)」と称される。また叔父に[[第二次ポエニ戦争]]で奴隷軍団を指揮した[[ティベリウス・センプロニウス・グラックス (紀元前215年、213年の執政官)|ティベリウス・センプロニウス・グラックス]]がいる。
 
==経歴==
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[[紀元前179年]]に[[プラエトル]](法務官)に当選する。[[インペリウム|軍団指揮権]]を授けられた彼は[[ヒスパニア]]に赴き、現地の[[イベリア人]]の反乱を鎮圧、その功績にて凱旋式を敢行する([[第一次ケルティベリア戦争]])。
 
[[紀元前177年]]には[[執政官]]を務め、[[紀元前169年]]には[[ケンソル]](監察官)となる。この職務に対しての元老院の風当たりは強く、同僚のケンソルが告訴される寸前までいったと言う。グラックスはローマより同僚ケンソルとともにローマ国外に退去する。結局グラックスの民衆からの人気の高さに押されて告訴は取り下げられて終わるが、彼も同僚とともに辞職した。紀元前163年に彼はコンスルに再当選する。そして[[サルディニア島]]に侵出、この功績にて2回目の凱旋式を挙げる<ref>一説には彼はこの遠征を妨害されないように、その年の執政官である[[プブリウス・コルネリウス・スキピオ・ナシカ・コルクルム]]を謀略にかけて執政官から退かせたともいわれている。これがナシカ・コルクルムとの間に緊張関係を生み出したかどうかは定かではない。しかし彼らの息子たち(同名の息子[[ティベリウス・センプロニウス・グラックス|ティベリウス]]と[[プブリウス・コルネリウス・スキピオ・ナシカ・セラピオ]])はのちに政治的に対立する間柄となる。</ref>
 
またグラックスは[[ギリシア語]]に堪能で、[[紀元前168年]]に[[ギリシア]]の[[ロドス島]]でギリシア語で演説を行っている。このようにグラックスは政治的、軍事的にも偉大な功績を残したが、何よりも彼はその人柄によって名声を得ていた。[[紀元前154年]]に彼は没するが、その時までには彼はローマ社会を牽引する人材と見られていた。
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==家庭==
[[紀元前172年]]にグラックスはかねてから約束されていたスキピオ・アフリカヌスの娘[[コルネリア・アフリカナ|コルネリア]]と結婚、彼女は18歳、グラックスは45歳ほどであった。このような年齢差があるにも関わらず、結婚はとても幸せなものであったと言う。二人の間に12人の子供が生まれたが、息子の[[ティベリウス・グラックス|ティベリウス]]、[[ガイウス・グラックス|ガイウス]]、娘のセンプロニアの3人だけが生き残った。グラックスは妻をことのほか深く愛した。また彼は彼女を妻として尊重して扱い、ローマ市民は自分達の尊敬するグラックスが丁重に接する妻コルネリアに一目を置いた。夫グラックスが没した時、妻コルネリアは再婚を拒み、息子たちの教育に残りの人生をかけたと言う。
 
==脚注==
<references />
 
==関連項目==
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{{DEFAULTSORT:せんふろにうす くらつくす まいよる ていへりうす}}
[[category:共和政紀元前2世紀の古代ローマ]]
[[category:センプロニウス氏族|くらつくす まいよる ていへりうす]]
[[category:紀元前154年没]]