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MUSASHI (会話 | 投稿記録)
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== 評制の実施 ==
「評」は、[[国造]]のクニを分割・再編しながら、[[大化]]・[[白雉]]年間(645~654) ごろ、全国的に実施されたと推測されている。それまで国造や[[県主]]であったり、部民や[[屯倉]]を管理していた地方豪族のうち、有力者が評家(コホリノミヤケ)を建て、評の官人(評造・評督・助督)となった。
 
宣下天皇三年(538)  大伴磐は大伴金村の子で仁那救援後、甲斐国山梨評山前邑を任地。 …『古代豪族系図辞典』
 
九州でも評制が施行された。「筑前国糟屋評」はのちの糟屋郡(文武2年京都妙心寺鐘銘)、「衣評」は後の薩摩国穎娃(えい)郡か(『続日本紀』文武四年六月庚辰条)、「久須評」はのちの豊後国玖珠郡(大宰府政庁跡出土木簡)、「日向国久湯評」は後の児湯郡(藤原京跡出土木簡)等の、後の郡と繋がる評名が知られる。「山部評」「豊評」(福岡市井尻B遺跡出土瓦)などの後の史料に現れない郡レベルの行政単位が記されたものも見つかっている。