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'''レイナード'''(Reynard)は、かつて存在した[[イギリス]]のレーシングカーコンストラクター。[[1973年]]に[[エイドリアン・レイナード]]により創設され、[[1974年]]よりレーシングカーの製作を開始したが、[[2002年]]に倒産した
 
==概要==
[[1973年]]に[[エイドリアン・レイナード]]により創設され、[[1974年]]よりレーシングカーの製作を開始したが、[[2002年]]に倒産した。ちなみに同社が開発したマシンの中には、同社の倒産後[[ザイテック]]など他のコンストラクターにより改良が続けられているものもある。また、[[1990年代]]後半より[[旅客機]]の座席の開発も行っていた
 
==車体を供給していたカテゴリー==
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国際F3000では[[1989年]]に[[ジャン・アレジ]]がチャンピオンとなり、2年連続でチャンピオンマシンとなった。[[1990年]]はF1以外では初めての「横置きギアボックス」を投入して、エアロダイナミクスで勝負を掛けたがライバルのローラを使用した[[エリック・コマス]]にチャンピオンを奪われた。しかし[[1991年]]([[クリスチャン・フィッティパルディ]])・[[1992年]]([[ルカ・バドエル]])・[[1993年]]([[オリビエ・パニス]])・[[1994年]]([[ジャン=クリストフ・ブイヨン]])・[[1995年]]([[ビンチェンツォ・ソスピリ]])で5年連続でチャンピオンマシンとなる。
 
国際F3000の参戦費用の増加を防止する為にFIAが[[ワンメイク]]シリーズとし、複数のコンストラクターが入札に参加した結果ローラが落札したので[[1996年]]以降はローラ・ザイテックジャッドのワンメイクレースとなったため、同社は国際F3000からの撤退を余儀なくされた。また、これにより大きな収入源を失った。
 
全日本F3000でも1989年以降もチャンピオン争いに加わる事は出来たが、レイナードが日本で2回目のチャンピオンマシンになるのはフォーミュラニッポンとなった[[1996年]]まで待たねばならなかった。これはヨーロッパのサーキットとタイヤが日本とはまったく異質とも言える程の違いがあったのでヨーロッパ仕様とは別の「日本仕様」を製作・開発・供給を行い、エンジニアを日本へ直接派遣する等してマシンの戦闘力アップとセッティングを進めようとしたがチャンピオンマシンになるには時間がかかった。
 
===フォーミュラ・ニッポン===
1996年に全日本F3000はフォーミュラ・ニッポンに衣替えして、引き続きレイナード・[[ローラ]]・童夢の3社による戦いが継続されたが、1999年以後はレイナードは性能面で他社に比べ優位に立ち、事実上レイナードのワンメイク状態となった。

しかし2002年に同社が倒産し、消耗パーツやスペアモノコック等の供給に問題が発生する恐れが出てきたことや、今後の開発がストップするなどの問題が出てきたことから、2003年よりフォーミュラ・ニッポンはシャシーを[[ローラ]]のワンメイクに変更している。
 
=== F3 ===
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==復活==
2009年、エイドリアン・レイナードはReynard Racing Carsの社名において、公道を走ることもできる、レース用スポーツカーの製作を発表した。
 
==関連項目==