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甥・[[曹叡]](明帝)とは、年齢も近いこともあって、明帝の皇太子時代から親友の仲であり、明帝の時代には皇族の中でも特に恩寵を受けていた。[[235年]]には入朝している。[[237年]]に[[ギョウ|鄴]]に帰還したが、[[238年]]に再び中央に召しだされた。
 
[[239年]]に明帝が病に倒れると、曹宇は明帝の見舞いに連日訪れた(明帝紀注が引く『漢晋春秋』)。明帝は曹宇を[[大将軍]]にして、[[曹肇]]、[[曹爽]]、[[夏侯献]]、[[秦朗]]ら魏の[[宗室]]・閣僚らと共に[[猶子]]の[[曹芳]](斉王)を補佐させようとした(明帝紀)。曹宇は謙虚な性格であったため、これを固辞した。重臣の[[劉放]]と[[孫資]]は曹宇が大任を果たせないことを自覚していると指摘し、曹宇に替えて曹爽と[[司馬懿]]を後見とするよう勧めた([[劉放]]伝)。曹肇と劉放・孫資との間で明帝の意志は二転三転したが、結局曹宇達は免職となり、中央から遠ざけられてしまった(明帝紀、劉放伝)<ref>明帝紀注が引く『漢晋春秋』では、曹宇は明帝の側に常に付き添っていたが、曹宇が一時明帝の側から退いて曹肇と相談している隙に、重臣の[[劉放]]と[[孫資]]はひそかに明帝に目通りし、文帝の遺命に藩王が政治に関与することを許さないというものがあることを挙げて、曹爽を後見とするよう明帝に熱心に勧めたとある。これは劉放と孫資が曹肇達と政治的に敵対しており自身の権限が損なわれるのを憂いた側面もあった</ref>。政治的な権限からは遠ざけられたが、以後もたびたび加増を受けた。
 
末子の常道郷公・曹璜(曹奐、元帝)が即位した後、上表して冬至を祝したが、その際に「臣」と称したため、曹奐はただちに詔勅を下し、先例を調査した上で、実父である燕王(曹宇)のために特別の待遇を許す措置をとった(「三少帝紀」)。