「パウロス1世 (ギリシャ王)」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
SieBot (会話 | 投稿記録)
m ロボットによる 変更: ro:Paul I al Greciei
編集の要約なし
36行目:
|脚注 = [[ファイル:commons-logo.svg|12px|ウィキメディア・コモンズ]] '''[[Wikipedia:ウィキメディア・コモンズ|ウィキメディア・コモンズ]]'''には、'''パウロス1世'''に関連する'''[[:commons:Category:Paul of Greece|マルチメディア]]'''および'''[[:commons:Category:Paul I of Greece|カテゴリ]]'''があります。
}}
'''パウロス1世'''({{lang|el|'''Παύλος Α΄,Βασιλεύς των Ελλήνων'''}}, '''Paulos I''', [[1901年]][[12月14日]] - [[1964年]][[3月6日]])は[[ギリシャ王国]]の国王(在位:[[1947年]] - [[1964年]])。[[コンスタンティノス1世 (ギリシャ王)|コンスタンティノス1世]]と[[ドイツ帝国|ドイツ]]皇帝[[フリードリヒ3世 (ドイツ皇帝)|フリードリヒ3世]]の娘[[ソフィア (ギリシャ王妃)|ゾフィー]]の三男として[[アテネ]]で生まれ、海軍士官としての教育を受けた。[[1917年]]から[[1920年]]までは父と、[[1923年]]から[[1935年]]までは兄[[ゲオルギオス2世 (ギリシャ王)|ゲオルギオス2世]]とともに[[亡命]]生活を送っている
 
== 略歴 ==
[[1938年]]に元[[ハノーファー王国|ハノーファー]]王[[ゲオルク5世 (ハノーファー王)|ゲオルク5世]]の孫の[[エルンスト・アウグスト (ブラウンシュヴァイク公)|ブラウンシュヴァイク公エルンスト・アウグスト]]の娘で[[ドイツ帝国|ドイツ皇帝]][[ヴィルヘルム2世 (ドイツ皇帝)|ヴィルヘルム2世]]の孫娘にあたる[[フリデリキ (ギリシャ王妃)|フリーデリケ]]と結婚し、1男2女をもうけた。現[[スペイン]]国王[[フアン・カルロス1世 (スペイン王)|フアン・カルロス1世]]の王妃[[ソフィア (スペイン王妃)|ソフィア]]はパウロス1世の長女である。
[[コンスタンティノス1世 (ギリシャ王)|コンスタンティノス1世]]と[[ドイツ帝国|ドイツ]]皇帝[[フリードリヒ3世 (ドイツ皇帝)|フリードリヒ3世]]の娘[[ソフィア (ギリシャ王妃)|ゾフィー]]の三男として[[アテネ]]で生まれ、海軍士官としての教育を受けた。
 
[[1917年]]から[[1920年]]までは父と、[[1923年]]から[[1935年]]までは兄[[ゲオルギオス2世 (ギリシャ王)|ゲオルギオス2世]]とともに[[亡命]]生活を送っている。ギリシャが[[ナチス・ドイツ]]の支配下にあった[[第二次世界大戦]]時には、[[ロンドン]]ならびに[[カイロ (エジプト)|カイロ]]の亡命政権に身を寄せ、カイロからギリシャ国民へメッセージを送り続けた。
[[1947年]]、兄ゲオルギオス2世が子をもうけずに死去したため、王位を継承した。王政派に加えて共和主義者の支持も得て、[[ギリシャ内戦]]を乗り切った一方で、自分が一旦[[首相]]に指名した[[コンスタンディノス・カラマンリス]]をフリデリキ王妃との確執から解任するなど、後の王政廃止の伏線となる政治危機のきっかけを作った。
 
[[1938年]]1月9日元[[ハノーファー王国|ハノーファー]]王[[ゲオルク5世 (ハノーファー王)|ゲオルク5世]]の孫の[[エルンスト・アウグスト (ブラウンシュヴァイク公)|ブラウンシュヴァイク公エルンスト・アウグスト]]の娘で[[ドイツ帝国|ドイツ皇帝]][[ヴィルヘルム2世 (ドイツ皇帝)|ヴィルヘルム2世]]の孫娘にあたる[[フリデリキ (ギリシャ王妃)|フリーデリケ]]と結婚し、1男2女をもうけた。現[[スペイン]]国王[[フアン・カルロス1世 (スペイン王)|フアン・カルロス1世]]の王妃[[ソフィア (スペイン王妃)|ソフィア]]はパウロス1世の長女である。
* [[ソフィア (スペイン王妃)|ソフィア]] - 現[[スペイン]]国王[[フアン・カルロス1世 (スペイン王)|フアン・カルロス1世]]妃([[1938年]] - )
* [[コンスタンティノス2世 (ギリシャ王)|コンスタンティノス2世]]([[1940年]] - )
* [[イリニ (ギリシャ王女)|イリニ]]([[1942年]] - )
の1男2女をもうけた。
 
[[1946年]]にギリシャに帰国する。[[ギリシャ内戦]]の最中だった[[1947年]]に、兄ゲオルギオス2世が子をもうけずに死去したため、王位を継承した。同年に執り行われた従弟の[[フィリップ (エディンバラ公)|エディンバラ公フィリップ]]とイギリス王女[[エリザベス2世 (イギリス女王)|エリザベス]]の結婚式には、[[腸チフス]]を患ったため、参加できなかった。
 
王政派に加えて共和主義者の支持も得て、1949年までにその力をほぼ失っていたギリシャ民主軍との戦闘は事実上終結させることに成功し、特にダメージの大きかったギリシャ北部の建て直しを始めることとなった。
 
1950年代になると、ギリシャ経済は回復を果たし、パウロス1世の外遊によって外交・貿易面での強化も図られた。また、ギリシャの元首としては初の[[トルコ]]首脳への訪問を果たした。
 
[[1947年]]、兄ゲオルギオス2世が子をもうけずに死去たため、王位を継承た。王政派に加えて共和主義者支持も得て、[[ギリシャ内戦]]を乗り切った一方で、自分が一旦[[首相]]に指名した[[コンスタンディノス・カラマンリス]]をフリデリキ王妃との確執から解任するなど、後の王政廃止の伏線となる政治危機のきっかけを作った。
 
1964年3月6日に、[[胃癌]]で死去。
 
[[File:Paul and Frederika of Greece.jpg|150px|thumb|left|[[アテネ]]に停泊中の[[アメリカ海軍|米海軍]]艦船[[プロビデンス (軽巡洋艦)|プロビデンス]]訪問時のパウロス1世(左から3人目)とフリデリキ妃<BR>([[1947年]])]]