「フリードリヒ・ヴィルヘルム1世 (プロイセン王)」の版間の差分

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=== 治世 ===
フリードリヒ・ヴィルヘルム1世は精力的に国政の合理化・単純化に取り組み、同時に軍事力の強化に着手した。経済力のある市民の受け入れを促進し、[[ペスト]]によって人口希薄になった[[東プロイセン]]に、[[フォンテーヌブローの勅令]]により[[カトリック教会|カトリック]]勢力に迫害された[[フランス王国|フランス]]の[[ユグノー]]たちを誘致した。[[1732年]]、特にプロテスタントへの迫害の厳しかった[[ザルツブルク大司教]]領からは2万以上の難民が移住し、荒廃した東プロイセンには再び活気が満ちた。また1713年の官営紡績工場設立、[[1717年]]の[[ハーフェル川]]流域の沼沢地干拓、[[1727年]]の[[ベルリン]]施療院設立などが王の業績として挙げられる。
 
また、従来より中央から御料地などに派遣されていた軍事監察官を強化し、御料地の税収強化(これはすべて軍事費に当てられた)、戦時における兵糧や補給調達の整備など、軍事に特化した中央集権体制を強靭に進め、この時代にはほぼ中央集権化が進められた。
 
フリードリヒ・ヴィルヘルム1世が行った軍制改革によって[[カントン制度]]が設けられ、地域別に編成された連隊への人員供給が安定した。また王は長身の兵を偏愛し、そのような兵のみを選抜した[[巨人連隊|ポツダム巨人軍]]と呼ばれる近衛連隊を組織したことは有名である。各地に出向いた徴兵官は誘拐や大金によって長身の壮男を募り、その中には[[スコットランド]]人などもいたが、王はベルリンに専用の邸宅まで用意して兵士に与えたりした。この連隊の維持には多額の費用がかかったが、兵力としてはなんら長所はなく、この王の唯一の娯楽ともいうべき連隊は、息子の[[フリードリヒ2世 (プロイセン王)|フリードリヒ2世]]の即位後廃止、残留を望む者だけを1個大隊に集めて、他は解散させた。
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=== 晩年 ===
[[1739年]]、自らが復興させた[[東プロイセン]]の繁栄を確かめる視察旅行の後、持病の[[水腫]]が悪化し、[[1740年]]5月31日、フリードリヒ・ヴィルヘルム1世は世を去った。フリードリヒ2世は後年父王について「彼ほど些事にかかずらう人はこれまでなかったであろう。まったく小さなことにかかずらうに当たっても、彼は小を扱うことが大をなすのだということを確信していたからである」という言葉を残している。
改革の効果は素晴らしく、他国が驚くほどの軍事力を備えながら国庫にはまだ貯蓄があったという。
 
== 人物 ==