「細川政権 (戦国時代)」の版間の差分

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== 経歴 ==
=== クーデターによる政権奪取 ===
[[応仁の乱]]のなか、細川家当主で[[管領]]・[[細川勝元]]は死去し、その後は嫡男の[[細川政元]]が継いだ。政元は第9代将軍・[[足利義尚]]が陣没して将軍継嗣問題が起こると、第10代将軍に[[足利義澄|清晃]]([[堀越公方]][[足利政知]]の子で後の足利義澄)を推していたが、[[足利義視]]や[[畠山政長]]との政争に敗れて義視の子・[[足利義稙|足利義材]](後の義稙)が第10代将軍に擁立された。
 
[[延徳]]3年([[1491年]])1月に義視が死去すると、幕政は畠山政長によって独占されることとなった。明応2年(1493年)2月、畠山政長は[[河内国|河内]]平定のため、足利義稙を擁した幕府軍を率いて[[畠山義豊]]([[畠山義就]]の子)を攻めた。そしてこの遠征中に京都の留守を任されていた政元は[[日野富子]]と結託してクーデターを決行する([[明応の政変]])。4月に清晃を京都にある自邸に招き入れ、実質的に第11代将軍・足利義高として擁立したのである。
 
一方、河内にあった幕府軍は京都の政変を知ると動揺して離反が相次ぎ、さらに政元の討伐軍が送られて義材は[[上原元秀]]に捕縛されて京都[[安寺]]に幽閉され、政長は自害した。こうして政元は将軍を傀儡として擁立することで、細川政権を成立させたのである。
 
=== 政元政権 ===
しかし、政元の誤算は義材に逃亡されたことにあった。政元は将軍殺しの汚名を嫌い、義材を[[小豆島]]あたりに流罪にしようと考えていたのだが、畠山政長の配下だった[[越中国|越中]][[守護代]]の[[神保長誠]]による手引きで京都を脱出してしまったのである。このため、明応8年([[1499年]])には義材に呼応した政長の子・[[畠山尚順]]ら諸大名の攻撃を受けるが、政元はこれを破り、義材は[[周防国|周防]]の[[大内義興]]のもとに逃亡した。
 
一方、将軍・足利義高(後に義澄と改名)を擁立して覇権を掌握した政元にも問題があった。それは政元が政務を家臣任せにして修験道に溺れているということである([[細川両家記]]より)。幸いにして政元には[[安富元家]]や[[三好之長]]といった優秀な家臣団が存在していたため、特に政務が乱れることは無かった。しかしこのような政元の奇行に家臣の一部が反発し、[[永正]]元年([[1504年]])には[[摂津国|摂津]][[守護代]]の[[薬師寺元一]]と[[赤沢朝経]]による反乱が起こるなどして、次第に細川氏内部に不穏な動きが起こり始める。
 
さらに政元は妻帯しなかったために実子が無かった。このため、[[養子]]として[[関白]]・[[九条政基]]の末子である[[細川澄之]](義澄の母方の従兄弟)を迎えたが、やがて細川氏の分家などが血のつながらない養子に家督を譲ることに反発したため、[[阿波国|阿波]]守護の細川分家である[[細川義春成之]]の・[[細川澄元]]を養子に迎えた。さらに後には同じく分家から[[細川高国]]も養子に迎えるなど、3人も養子を迎えたことがかえって家督争いを引き起こす結果となった。
 
永正3年([[1506年]])、政元は自らの勢力拡大を目指して河内・[[大和国|大和]]・[[丹後国|丹後]]など諸国に軍を派遣した。この遠征は翌年になっても続いたため、政元の身辺には軍がいないという事態が続いた。そして永正4年([[1507年]])6月23日、政元は澄之を推す[[薬師寺長忠]](薬師寺元一の弟)・[[香西元長]]らによって[[暗殺]]されてしまった([[永正の錯乱]])のである。
 
=== 澄之政権 ===
政元暗殺後の6月24日、長忠と元長は[[細川澄元]]の暗殺も謀ったが、澄元の家臣・[[三好之長]]の手引きによって[[近江国|近江]]に脱出した。こうして長忠と元長は澄之を擁立したのである。
 
しかし近江に逃れた澄元・之長らは近江の[[国人]]衆と他の細川一族を味方につけ、8月1日には京都に侵攻する。この戦いで澄之は敗れ、遊初軒(澄之の自邸)で自害した。長忠・元長らも自害し、澄之政権はわずか40日で崩壊した。
 
=== 澄元と高国の争い ===
澄之を自害に追い込んだ澄元は細川氏の家督を継いだ。ところがこのような内紛が[[周防国|周防]]に逃れていた[[足利義稙|足利義尹]](義材)や[[大内義興]]のもとに知らされると、義興は九州・中国の諸大名を動員して上洛を開始したのである。澄元は高国に命じて義興と和睦しようとしたが、高国は意に反して義興と通じて寝返った。このため、和睦交渉は決裂する。
 
永正5年([[1508年]])4月、西から義興が率いる軍、東から高国が率いる[[伊賀国|伊賀]]などの軍勢に攻められた澄元は京都を放棄して近江に逃亡した。このとき、澄元に擁立されていた[[足利義澄]]も近江に逃亡した。このため、再び義尹が将軍に復帰し(後に義稙と改名)、今度は高国・義興の連立による傀儡政権が成立したのである。
 
永正6年([[1509年]])、京都奪還を目指す澄元・之長らは京都に侵攻するが敗退([[如意ケ嶽の戦い]])する。このため、永正7年([[1510年]])には逆に高国・義興による近江侵攻が行なわれたが、澄元は[[近江国]]人衆の支持を得てこれを破るなど、一進一退の攻防が続けられた。
 
永正8年([[1511年]])、澄元は[[細川政賢]]・[[赤松義村]]らを味方につけた大軍を率いて京都に侵攻し、各地で高国・義興連合軍を破った。ところが後ろ盾であった近江[[守護]]の[[六角高頼]]が高国方に寝返り、さらに8月14日に澄元が擁していた[[足利義澄]]が病死してしまう。このためもあって、8月24日に行なわれた決戦である[[船岡山の戦い]]で澄元は大敗を喫して[[細川政賢]]は戦死し、澄元は摂津に敗走した。
 
将軍[[足利義稙]]を擁する高国と義興の連立政権はしばらく続いたが、永正15年([[1518年]])8月2日、[[大内義興]]は周防に帰国したため、[[細川高国]]による単独政権となる。ところが反攻の機会をうかがっていた澄元らは、永正16年([[1519年]])10月に摂津に侵攻した。この侵攻を高国は防ぎきれず、永正17年([[1520年]])1月になると[[山城国|山城]]で[[土一揆]]が起こるなどして遂に近江に逃亡する。このとき、高国と不仲だった義稙は高国と行動を共にせず、澄元の庇護を受けた。しかし5月になると近江に逃れた高国は大軍を率いて京都に侵攻し、澄元は摂津に敗走し、[[三好之長]]は捕らえられて処刑された。そして6月10日、澄元も最終的に逃亡した阿波[[勝瑞城]]で病死した。
 
=== 高国政権 ===
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[[画像:細川家.jpg|thumb|left|上杉本 洛中洛外図屏風「細川殿」]]
 
澄元の死で敵対者がいなくなった高国であるが、元々実力者である大内義興の力を背景にした政権であったことからその政権基盤は脆弱なものであり、義興が帰国した後の高国は強権政治を敷きこれを維持せざるを得なかった。功臣の[[瓦林政頼|河原林政頼]]や[[利倉民部丞]]らを粛清したのをはじめとして、[[大永]]元年([[1521年]])には将軍・[[足利義稙]]を追放して義澄の子・[[足利義晴]]を新たに擁立するなど、まさに「今は心に懸る事もなく、威稜日月に増長」であった。
 
大永5年([[1525年]])4月、高国は子の[[細川稙国|稙国]]に家督を譲って[[隠居]]するが、稙国は12月に早世してしまい、やむなく高国は家督を再相続した。
 
大永6年([[1526年]])、[[はとこ|又従兄弟]]に当たる[[丹波国|丹波]]の守護・[[細川尹賢]]の讒言を信じた高国は、重臣の[[香西元盛]]を誅殺してしまった。これにより、元盛の兄である[[波多野稙通]]や[[柳本賢治]]らは[[細川晴元|細川六郎]](澄元の嫡男、後の晴元)や[[三好元長]](之長の孫)と通じて高国に反乱を起こした([[堺公方]])。これに対して高国は波多野討伐を実行したが、[[内藤国貞]]らの反抗もあって失敗する。大永7年([[1527年]])2月には[[桂川の戦い]]で波多野・三好軍らに高国は敗れて将軍・[[足利義晴]]を擁して近江に逃亡した。六郎達は義晴の兄弟に当たる[[足利義維]]を擁立、仮政権・[[堺公方|堺幕府]]を樹立した。
 
[[画像:廣徳寺1.jpg|thumb|細川高国の最期の地となった[[広徳寺 (尼崎市)|広徳寺]]]]
 
[[享禄]]3年([[1530年]])5月、高国に代わって京都で権勢を振るっていた[[柳本賢治]]が家臣の[[中村助三郎]]によって暗殺された。これを機に高国は再び京都復帰を果たしたが、享禄4年([[1531年]])3月には摂津[[中嶋の戦い]]において三好元長に敗れ、6月4日の[[大物崩れ|天王寺の戦い]]([[大物崩れ]])でも元長に敗れて捕らえられ、6月8日に自刃に追い込まれた。こうして高国政権は崩壊したのである。
 
=== 政権崩壊へ ===
高国の死後、[[三好元長]]に擁されて細川家の家督を継いだのは澄元の子の細川六郎([[細川晴元]])である。しかし天文元年([[1532年]])に[[三好政長]]・[[木沢長政]]や[[茨木長隆]]の讒言を受けて、[[本願寺]]第10世[[証如]]に[[一向一揆]]を動かして元長を誅殺し、[[堺幕府]]と決別し将軍た。一向一揆の暴走([[享禄天文の乱#天文の錯乱|天文の錯乱]])には[[足利義晴法華一揆]]・[[六角定頼]]の力を借りて戦い、[[天文 (元号)|天文]]5年([[1536年]])に和睦、京都で勢力を伸ばした法華一揆は定頼と[[比叡山]][[延暦寺]]に与して鎮圧(天文法華の乱)、京都の安定を確保して将軍・義晴と和睦、義晴を傀儡とした[[管領]]・[[細川晴元]]による幕政が行なわれた。
 
天文11年([[1543年]])に高国の養子・[[細川氏綱]]が挙兵したことにより、再び細川家の内紛が再燃した。このとき、元長の子・[[三好長慶]]が晴元の家臣として頭角を現し、晴元は氏綱を圧倒する。しかし天文17年([[1548年]])、長慶が氏綱側に寝返ったため、一転して晴元側が不利となり、天文18年([[1549年]])には[[江口の戦い]]で長慶に敗れて政長を討ち取られた晴元は[[足利義晴]]・[[足利義輝]]と共に近江に逃亡した。氏綱は[[管領]]となるも長慶の傀儡にすぎず、晴元の敗北により細川政権は終焉し、新たに[[三好政権]]が成立したのである。
 
その後も、晴元は政権奪回を目指して再挙を図るが、[[三好長慶]]に敗れて[[永禄]]4年([[1561年]])に和睦せざるを得なくなった([[久米田の戦い]])。晴元はその2年後に死去し、晴元の嫡男・[[細川昭元]]は氏綱と共に[[三好氏]]の傀儡となる。[[織田政権]]下でも[[細川昭元]]は[[織田信長]]の妹婿に迎えられて名目上旧領国丹波の旗頭として命脈を保った。
 
その後も、晴元は政権奪回を目指して再挙を図るが、[[三好長慶]]に敗れて[[永禄]]4年([[1561年]])に和睦せざるを得なくなった([[久米田の戦い]])。晴元はその2年後に死去し、晴元の嫡男・[[細川信良|昭元]]は氏綱と共に[[三好氏]]の傀儡となる。[[織田政権]]下でも[[細川昭元]]は[[織田信長]]の妹婿に迎えられて名目上旧領国丹波の旗頭として命脈を保った。
 
=== (その他) ===
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== 参考文献 ==
*足利将軍列伝 [[桑田忠親]] [[秋田書店]]
*三好長慶 [[長江正一]] [[吉川弘文館]]
*陰徳太平記 [[松田修]]
 
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