「哀公 (秦)」の版間の差分

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哀公31年([[紀元前506年|前506年]])11月、[[呉 (春秋)|呉]]王[[闔閭]]が[[伍子胥]]とともに楚の都である[[郢]](えい)<ref>現在の[[湖北省]][[荊州市]][[江陵県]]。</ref>に攻め入ったため、楚の[[昭王 (楚)|昭王]]は隨(ずい)<ref>現在の[[湖北省]][[随州市]][[随県]]</ref>へ逃れ、秦に救援を要請してきた<ref>この時、楚の[[大夫]]である[[申包胥]]が泣きついて来て、一杯の湯さえも口にせず、7日間過ごした。そこで哀公は『[[詩経]]』国風の秦風「無衣」の詩を歌ってやったという。</ref>。そこで秦は兵車500乗を送って楚を援助し、呉軍を破った。これにより楚の昭王は郢に戻ることができた。
 
哀公36年([[紀元前501年|前501年]])秋、哀公が薨去したが、[[太子]]の夷公は早くに亡くなっていたので、夷公の子が立って秦君([[秦の恵公 (春秋)|恵公]])となった。
 
== 脚注 ==