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'''ユリアーネ・マリー・フォン・ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル'''([[ドイツ語|独]]:Juliane Marie von Braunschweig-Wolfenbüttel, [[1724年]][[9月4日]] - [[1796年]][[10月10日]])は、[[デンマーク]]・[[ノルウェー]]王[[フレデリク5世 (デンマーク王)|フレデリク5世]]の2度目の王妃。
 
== 来歴 ==
[[ブラウンシュヴァイク=リューネブルク|ブラウンシュヴァイク=リューネブルク公]][[フェルディナント・アルブレヒト2世 (ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビーネブッテ公)|フェルディナント・アルブレヒト2世]]と妃アントイネッテ・アマーリエの娘として、[[ヴォルフェンビュッテル]](現在の[[ドイツ]]・[[ニーダーザクセン州]])で生まれた。長兄はブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル公[[カール1世 (ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビーネブッテ公)|カール1世]]。次兄[[アントン・ウルリヒ・フォン・ブラウンシュヴァイク|アントン・ウルリヒ]]は[[ロシア帝国|ロシア]]皇帝[[イヴァン6世]]の父。姉たちのうち、長姉[[エリーザベト・クリスティーネ (プロイセン王妃)|エリーザベト・クリスティーネ]]は[[プロイセン王国|プロイセン]]王[[フリードリヒ2世 (プロイセン王)|フリードリヒ2世]]の妃になり、次姉[[ルイーゼ・アマーリエ・フォン・ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル|ルイーゼ・アマーリエ]]はフリードリヒ2世の弟[[アウグスト・ヴィルヘルム・フォン・プロイセン (1722-1758)|アウグスト・ヴィルヘルム]]の妃となり[[フリードリヒ・ヴィルヘルム2世 (プロイセン王)|フリードリヒ・ヴィルヘルム2世]]を産んだ。
 
[[1752年]]、最初の王妃[[ルイーズ・オブ・グレート・ブリテン|ルイーセ]]を亡くして寡夫となっていたフレデリク5世と結婚。7子をもうけた。そのうちの長男フレデリク(1753年 - 1805年)は、[[デンマーク]]王[[クリスチャン8世 (デンマーク王)|クリスチャン8世]]の父である。王妃としてのユリアーネは目立つ存在ではなかった。彼女が重要性を増すのは、王太后となってからである。
 
[[1766年]]、フレデリクと死別。継子である[[クリスチャン7世 (デンマーク王)|クリスチャン7世]]が即位したが政治的なことには無関心であったため、権力を王妃[[カロリーネ・マティルデ]]とその愛人[[ヨハン・フリードリヒ・ストルーエンセ]]たちに握られた。2人は自由政治の信望者で、貴族の反対を押し切ってより民主的な法の成立を急いだ。その改革策は周囲の反感を招き、ユリアーネは反ストルーエンセ派の貴族たちの中心に位置するようになっていった。彼女は王妃とストルーエンセの姦通を理由に彼らの政権を覆した[[クーデター]]の旗印となった。[[1772年]]、ストルーエンセは処刑され、カロリーネ・マティルデはドイツへと追放された。
 
ユリアーネの息子フレデリクは摂政となった。しかし現実には、彼は母の操り人形であり、彼の摂政政治の真の統治者はユリアーネであった。[[1784年]]、王太子が即位し[[フレデリク6世 (デンマーク王)|フレデリク6世]]の親政が始まると、ユリアーネと摂政フレデリクは政治の表舞台から降りた。
 
1796年、フレデンスボーで死去。[[ロスキレ大聖堂]]に葬られた。