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'''ウリヤンカダイ'''('''Uriyangqadai'''、[[1200年]] - [[1271年]])は[[モンゴル帝国]]・[[元 (王朝)|大元朝]]に活躍した将軍。モンゴル族ウリヤンカイ部族出身の[[スブタイ|スベエデイ]]の息子。[[アジュ]]の父。『[[元史]]』などの漢語表記では兀良合台、『[[集史]]』などの[[ペルシア語]]表記では اوريانكقداى بهادر Uriyānkqadāī Bahādur。
 
== 生涯 ==
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=== 南宋・雲南遠征 ===
[[1251年]]、モンケが第4代モンゴル皇帝に即位すると、[[南宋]]遠征の一貫として大理遠征が議決された。南宋遠征軍の右翼軍の大将として[[クビライ]]が任じられると、ウリヤンカダイはこの宿将に任じられた。翌[[1252年]]に息子のアジュ(阿朮)ともなって[[四川]]方面に南下して[[金沙江]]を渡り[[大理国]]に迫った。クビライの右翼軍は大理を包囲して降伏させ、大理国王・[[段興智]]を捕虜とした(段興智は旧領を安堵されて、管領として摩訶羅嵯に封じられた)。[[雲南]]に都元帥が置かれ、この功績によりウリヤンカダイは大元帥となった。
 
この時、クビライは兄である皇帝モンケと戦線の方針を巡って対立があったようで、クビライは南宋遠征軍の司令官から更迭させられ、本拠地の[[上都]]金蓮川へ北還したが、ウリヤンカダイは右翼軍の指揮権を委譲されて、後に[[チャガタイ・ハン国|チャガタイ王家]]の第6代当主となる[[アビシュカ]]、[[カチウン]]家のチャクラ、エジルなどの王族たちとともにそのまま雲南の遠征軍のうちに留め置かれた。ウリヤンカダイの右翼軍はそのまま南征したのち北に取って返し、東方三王家の首班[[テムゲ・オッチギン]]家の当主[[タガチャル]]の指揮する左翼軍が[[襄陽]]を陥落させ、[[鄂州]]で合流する計画であったという。
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=== 晩年 ===
[[1260年]]以降のクビライと[[アリクブケ]]の[[モンゴル帝国帝位継承戦争|皇位継承戦争]]ではクビライを支持した。これ以降のウリヤンカダイの事蹟は殆ど記録にないが、[[1262年]]の[[山東]]の漢人諸侯・李[王亶](りたん)の挙兵には、[[ジョチ・カサル]]の息子らしい王族カプチュ率いる討伐軍の後方部隊として息子のアジュを派遣するなどしている。 [[1271年]](至元六年)に71歳で没した。
 
『元史』巻百二十一に列伝がある。